vol.4
月が昇っていた。
海に白い柱を描いて、一枚の絵のように。
太陽よりも大きく、しかもその隣に小さなもう一つの月を従えて、この惑星ニーグルの月は海原を見おろしている。
砂浜にうち寄せる波がリュミエールの足を僅かに濡らし、しかしそんな事には構わずに彼は海を眺め続ける。
(アンジェリーク……)
あの日以来、夢も見ないし心話も感じられない。
(あなたはどこにいるのですか……、アンジェリーク…)
サクサク……。
砂を噛む音が背後から彼に近づき、それに気付いたリュミエールはゆっくりと振り返った。
「オスカー……」
部屋に戻ったのでは?
彼の背後に立つヴィクトールの姿をも見つけて、その言葉を飲み込む。
「お前を一人にすると何をするか分からんからな」
オスカーは酒の匂いを振りまきながらもしっかりとした足取りでリュミエールに近づいてくる。
ヴィクトールが苦笑いを浮かべてこちらを見ていた。
どうもオスカーに押し切られたようだが、心配で付いてくるところが彼らしい。
「ずっと……俺になにか言いたい事があったんじゃないのか?」
少し離れた砂浜に腰を下ろすと、オスカーは口火を切った。
「何も言うことはない、などと言わせないぞ。お前は態度で物を言うからな」
「ならば……」
リュミエールは再び視線を海に戻す。
「言わなくともわかるのでは?」
「いいかげんにしろよっ! 一体俺が何をした?
俺は自分の愛する女性に自分の心を分かって貰おうとしただけだっ。彼女の愛が欲しいと、願っただけだっ! それの何処が悪いっ?
あの時彼女は何も言えずにいた。迷っていた…。だから俺は…選んで欲しいと…、俺を選んで欲しいとそう思ったから…。
お前だって同じさ。…そうだ。お前があの時俺の代わりにそこにいたならば、きっと俺と同じことをするだろうっ! そうさっ、」
「いいえっ!!」
リュミエールは、彼にしてはかなり激しい口調でオスカーの言葉を遮り、彼をきっと睨み付けた。
月光を受けた横顔が美しい。
険しい顔付きをしていても、彼の美しさは損なわれはしなかった。
それどころか、高度な古代文明の彫刻遺跡の様に気高く、冷たく見える。
「私は…、決してあなたと同じことはしません。決して…。
彼女を悲しませるくらいなら…私は…」
「偽善者ぶるんだな。こんな時も」
「そんな…」
それ以上は、何も語らなかった。
こんな言い争いは無意味だ…と、くるりと後ろを向いたリュミエールの背中が言っていた。
「またそうやって…逃げるんだな」
「……」
「いいさ…、お前はそうやって逃げていろよ。俺は今度こそ、…今度こそ彼女の気持ちを確かめる。彼女を助け出して、そうさ、この腕で必ず助け出して…。
彼女が俺を選んでくれたなら、俺はもう……彼女を離しはしない。
世界の全てを……敵に回しても……だ」
オスカーはゆっくり立ち上がり、服に付いた砂を払い落とそうともせず、そのまま後ろを向いて歩いていった。
─── …が。
「おっ!! ……おじょう…ちゃん……?」
掠れた声を上げ、その場に呆然と立ちつくす。
三人の居る場所は入り江になっていた。
湾の向こう側に街が広がり、こちらがわは延々と海岸が続いている。そのすぐそばまで、木々が茂り、間もなく明日の一行の目的地である火山のある山々の裾野へと続いていた。
その湾の、渚の上であった。
月の光を鮮やかに煌めかせ、幾筋もの波が打ち寄せている。
街の明かりも波間に華を添え、暗いネイビーブルーの海はまるで地上の星空のようであった。
星空の上に浮かぶ幻影。
闇を透かして淡く白く浮かび上がる少女の裸体。
少女は膝を抱え、まるで胎児のような姿勢で浮いていた。
「アンジェリーク!」
オスカーが叫ぶなり少女の元へ駆け出す。
リュミエールは目を見開いたままその場に釘付けになり、ヴィクトールもその場から動けずにいた。
透き通る彼女の身体は、それが明らかに幻影、蜃気楼のように儚い物であると伝えている。
「アンジェリーク!?」
オスカーの頭よりも少し高い位置に彼女の身体はあった。
震える手がその身体に差しのべられるが……。やはり空を掴むばかりで少女の身体の手応えは無い。
リュミエールも、そしてヴィクトールもすぐに続いて駆け寄ってきたが、誰にもその身体に触れることは出来なかった。
「…君はどこにいるんだっ?」
オスカーの声が虚しく響く。
「アンジェリーク!!」
リュミエールの悲鳴にも似た慟哭。
その声にアンジェリークはビクリッと僅かに反応したが、ただそれだけであった。
「どうしてっ!? どうして…こんな……。あなたは今何処にいるのです?」
「アンジェリーク!!」
「アンジェリーク!!」
三人とも少女に向かって虚しく叫び続ける。
その幻影は僅か数分ほど滞空していたであろうか…。
やがて徐々に薄れだし、ゆらゆらと揺らめきながら闇と同化してゆく。
「アンジェリークぅぅっ!!!」
リュミエールが、普段の彼からは絶対に考えられない程の叫び声を上げる。
その悲痛な叫びはどこかもの悲しい楽の音にも似て、密やかな夜を切り裂きながら水面を走った。
それに反応したのであろうか…?
消えゆく少女の手が少しずつ動き…。
ある一点を指差して…、そして全てが闇に飲み込まれてしまった。
「アンジェリーク……」
オスカーはそのままその場に膝をついた。
(リュミエールの声に…反応した……?)
オスカーはその事が、そのまま少女の答えのような気がして身体が震え出すのを押さえられなかった。
下半身を波が濡らしているのに、その場から動こうとはしない。
(お嬢ちゃんの……愛しているのは………)
その先を考えるのが恐い。
炎の守護聖として、彼は何者をも恐れたことなどなかった。
生者はもちろんのこと、死者や、あるいは己の死すらも。
だが今、この小さな、華奢で儚げな少女の答えを聞くのが恐い。
もしもこの心の中で激しく燃える愛の火を消さなければならない日がくるのなら……。
……それならばいっそ、自らの手で何もかも壊してしまいそうだ。
彼女の心に誰もいないと言うのなら……、まだ押さえる術はある。
だがしかし、彼女の心の中に住んでいるのが……。
(いやっ、そんなことは認めないっ! こんな……戦うこともせず逃げ出す事ばかり考えている奴に……ッ! こいつの優しさは偽善でしかないっ! 本音を言わない事が相手を傷つけないことだなんて……。そんな風に考えてる奴に、アンジェリークは……絶対に渡さないっ!!)
激しく燃え立つ感情。
それが性である炎の守護聖は、唇を奮わせながら呆然と立つ、麗しい水の守護聖を睨み付けた。
「…アンジェリークは……俺が絶対に助け出す」
オスカーの声にはっと我に返ったリュミエールは、悲痛な表情で彼を見た。
「オスカー……」
オスカーがリュミエールの心を解さぬように、リュミエールもまた、彼の心をはかる事は出来なかった。
(どうして……。あなたはその性のままに……。
怒りが…、憎しみが私に向いているうちはまだいい……。でもそれが……もし…)
全てのものに向けられた時、激しい感情は一体どうなってしまうのか……。
黒いサクリアとして、宇宙の全てのものを巻き込み…。
リュミエールは知らずに両手で自身を抱きしめていた。
(アンジェリークを……私はアンジェリークを愛しています。張り合うつもりはないですが……、もし彼女をこの腕に抱きしめることが出来るなら……何を引き替えても惜しくない。でも……私が彼女を愛することで…この人が彼女を巻き込むことになるのであれば…)
リュミエールが危惧するのはそのことであった。
(私には分からない……。愛する人を破滅にまで追い込もうとする激しい愛……。
そういう愛がすべてではないはず…。私は……)
「どうやら、我々が向かおうとしている先は……間違ってないようだな」
ヴィクトールの、一人穏やかな声が波間に漂った。