vol.6
“見えるかい?”
澄んだ闇色の空間内に漂うどろりとした混沌の闇…。
そしてその混沌の闇の中に、うっとおしい周りの闇を押しのけるようにして暗い紫色に輝くオーラがあった。
それは周りの闇に食われてしまわないよう必死で抵抗を続けているようにも見える。
『………』
混沌に問いかけられた、紫色の輝きを放つ者は答えない。
全身をイバラに縛められ、かなり抵抗したのか傷だらけで、白い肌に血が衣装のようにこびり付いている。
臈長けた顔は青ざめてぴくりとも動かず、人形のようにも見える。
しかし、僅かに開いた口から微かに漏れる息づかいだけが、彼の生の証を立てていた。
“あなたがいなくてもあの天使は誰かが支えてくれるのさ。別にあなたじゃなくてもいいんだ…、あなたは必要ないんだよ”
『………』
“守護聖に何かあれば、時期守護聖が必ず現れる。恋人に何かあれば、次の恋人が見つかるものさ。もちろんそれは女王だって……ね”
『……そ…れがどう…した……』
ビクリッとして混沌の闇が震えた。
もはや答える力すら残っていないと思っていたのだが……。
混沌の闇、ディザイアは一瞬驚いたものの、すぐそれは最後の悪あがきに違いないと思い、気を取り直した。そして昏く燃えるたてがみを振り立て、歯をむき出して嘲笑った。
─── そう闇の守護聖はもはや手の内にある……。
“あの金色の天使様だって同じだ…ってことだよ。もちろん、あなただって何があっても一人の人をずっと愛し続けることなんて、できやしないんだ”
『………』
クラヴィスは縫い止められてしまったかのような瞼をゆっくりと持ち上げる。
闇の瞬きが宿る瞳が僅かに見えた。
“さすがに守護聖だね。僕に力のほとんどを吸収されてもまだ口をきけるなんて。闇の力の食べ過ぎで、僕もいささか食傷ぎみだ。……”
『…素直に…「限界だ」…と言うがいい…』
青ざめた顔に皮肉めいた微笑が浮かぶ。
ディザイアは彼の気迫に押されていた。
囚われの身で、しかも力の殆どは奪い尽くされている筈の闇の守護聖の、全身からにじみ出る何かいいようのない圧迫感にたじろいでしまう。
それでも、彼にもはや打つ術はない…との確たる思いは、ディザイアを強気に走らせた。もしもそのままであったなら、彼の欲望は成就していたやもしれないのに…。
“…そんな負け惜しみを言うぐらいの気力は、まだ残っているようだね。
…ふうん。じゃあ、賭をしようよ”
『……』
クラヴィスは訝しげに闇の獣の金色の瞳を見つめた。
もはやそんな他愛のない仕草も身体にむち打たねばならなかったが、彼の言葉の響きは不吉なものをはらんでいるような気がして、睨み付けずにはいられなかった。
“賭はあなたのその魂。僕が勝ったらあなたはその無駄な抵抗をきっぱりと止めて、僕の手の中に落ちる事。そしてあなたが勝ったら……、その魂の解放”
クラヴィスは彼のしようとしていることが分からなかった。しかし、その言葉の裏に潜む一つのことだけは確信できる。
彼の抵抗は無駄なことではないのだ。
─── まだ全てがディザイアに奪われている訳ではない…。
それは気の遠くなりそうな話ではあったが、アンジェリークに恋し、その心を望んでいた時のことを考えれば、苦もなく好機を待てる。
『……愚問だな。我が魂など、…賭ける値打ちもない…』
きっぱりとはねつけられてディザイアは首を傾げ、しばし何か考えているようであった。
“……わかった。じゃああなたが勝ったら、僕はあの天使様から手を引くよ。今後あの天使様を僕の闇に引きずり込むようなことはしない”
しばし、瞳が対峙する。
やがて気力が尽きたのか、クラヴィスはゆっくりと目を閉じた。
『……良かろう』
ディザイアは嬉しげに瞳を細める。
“あの天使は、本当にあなたを待っていられるか。あなたは彼女を愛していられるのか。………どんなことがあっても……ね?”
冷たいまどろみの中に彼女はいた。
その泡沫の真ん中には広大な河が流れている。
暗く淀んだその水にはどんな生物も棲むことは出来ぬ程、汚泥と、そして穢れた人の心が積もっている。
河の向こうに愛しい面影が立っていた。
『クラヴィス様……』
静かな面をこちらに向け、クラヴィスは苦渋の表情で呟く。
『……辛いのだ…。待たれている事が……』
『クラヴィス様?』
アンジェリークはそこに河が有ることも忘れて走り寄った。
『!?』
どろりっと足に絡み付く汚泥。
そこから先に進むことは出来ない。
『……頼むから、私を眠らせてくれ……静かに…。そしてお前は……お前の道をゆけ…』
涙が止まらない。
アンジェリークはどうして彼がそんなことを言い出すのか分からなかった。
待つことなど、自分にとっては何一つ苦にならなかった。
確かに焦点の合わぬ瞳や、自発的に動かすことの出来ぬ彼の身体を世話しているのは辛かったが、それもいつか彼が帰ってきてくれると信じていればこそ、耐えていける。彼のそばにいられるという幸福感だけで、待っていられるのだ。したが、彼を待っていることが彼にとって苦痛となるのであれば………。アンジェリークは一体どうすればいいのだろう?
もう彼女はどうしたらいいのか分からずに、ただ汚泥に足を取られたまま涙しているだけであった。
『どうして……? どうしてそんなこと言うの?』
クラヴィスは黙ったまま頭を振る。
静かな拒絶。
何も言うなと……、もう彼の事は忘れろと、河が囁く。
忘却が時には優しさであると、心の中で何かが呟く。
『クラヴィス様……』
これは夢だ…とアンジェリークはぎゅっと目を閉じる。
しかし、その一方でこんな夢を見てしまうほどに自分は疲れているのか…とも思う。
疲れた……?
何に…?
彼を待つことが……ではない。
彼を待つために虚勢を張ることが。
希望を捨てはしない。
彼のそばにいられるだけでいい。
それでも不安は募っていく。
支えてくれる腕が欲しかった。
でも一番に望む腕は…未だ闇の顎にとらえられたままだ。
初めて心が通じた闇の中。
あの時感じた彼の愛だけを支えに、今まで気丈に振る舞ってきた……。
それが全て白紙に戻るというのなら、自分の心は一体どこにいけばいいのだろうか?
まるで捨てられた猫のように打ちひしがれ、自分が漏らすすすり泣きの声で目が覚めた。現実もまだ、闇の中だった。
「クラヴィス様……」
いつの間にか枕元でうたた寝してしまったようだ。
アンジェリークが彼の元に戻って来たのはまだ明るい頃だったが、今はすっかり闇に隠されている。灯りもつけない室内は物の形も定かでなく、彼女はベッドサイドのスイッチを入れた。柔らかな光がぼんやりと室内を照らし出す。
彼は数時間前にアンジェリークが見たままと同じくベッドに横たわっていた。
闇の中、目を見開き、どこを見るでもなく……。
「………」
アンジェリークは虚ろにその顔を見下ろした。
…ふと……目の端に映る影が動く。
はっとしてそちらを振り向くと、闇にも鮮やかな深紅の髪の人がそこにいた。
「オスカー様?」
答えはない。
無言で、ただその場に立ち尽くし、アンジェリークをじっと見つめている。
いや、アンジェリークを見ているようで、その瞳はどこか焦点が合わず、着崩れた衣類と乱れた髪が寝起きを連想させる。……それとも未だ…。
「オスカー様っ?」
再度の呼びかけにも返事はない。
アンジェリークは一瞬にして全身が硬直した。
(……オスカー様?…、何? 一体これは何?)
張りつめた空気がピリピリと肌を刺す。
少なくともいつもの彼ではなかった。
瞳に覇気がない。冴えた鋭いぐらいの視線も今はまるで力無く、切なげに潤んだまま宙を泳いでいた。
闇を割ってオスカーが一歩、ふらふらと危なげな足取りでこちらに踏み出す。
そしてまた一歩…。
オスカーは呆然と見上げているアンジェリークの前までくると、どこかぎこちない動作で彼女を立たせ、そして、抱きしめた。
「……もう忘れるんだ…」
「オ……スカー……さ…ま?」
耳元で囁かれる甘い響きに紛れ、意味を理解するのにたっぷり10秒はかかった。
「…こうして彼のそばにいることが、本当にあなたの幸せなのか考えたほうがいい。彼の一番望んでいること、……それはあなたの幸福なのだから…」
どこかに違和感を感じながらもアンジェリークはそれを深く考えようとはしなかった。
彼女の心を占めていたのはうたた寝の中で見た先程の夢。クラヴィスが辛苦の表情で言ったあの言葉。
『辛いのだ……待たれていることが』
恋しくて逢いたくて、一縷の望みを抱いて彼の側にいることは、……そんなアンジェリークの切ない想いは、彼にとって夢でまで呼びかけるほどに重荷になっているのだろうか。そう思うと現実に抱きしめているこの腕を振り解く気力もない。確かに昼間のオスカーと様相を異にしていたのに。
「闇のサクリアは、鋼の守護聖が作った装置で引き出すことが出来る。彼の身体が生きてさえいれば、……次期闇の守護聖が出現するまで不都合はないし……、何より、あなたの束縛から闇の守護聖を解放してあげられる」
(私が……束縛……?)
アンジェリークは瞳を見開き、身体を震わせる。
(束縛して……るの? ……私?)
「闇の守護聖をゆっくりと眠らせてあげなさい」
オスカーの薄い唇が笑みを浮かべた。むろん、抱きしめられているアンジェリークからは見えるはずもなく、彼女は力が抜けていく身体を支えようと無意識にオスカーの衣類にしがみつく。
「…僕が支えてあげる……。僕がいつもあなたの側にいるよ……、僕の天使……」
オスカーの口から囁かれている彼の声であるはずが、それはもはやオスカーのものではなかった。
自分の心の声にも現実の声にも耳を塞いでしまったアンジェリークの耳に、それは風の戯れと同様なんの意味もなしていない。……聞こえていなかった。
オスカーの唇が首筋に触れる。
木偶人形と化したアンジェリークは、恐々と触れるオスカーの唇に何の反応も示さず、やがて手が背中を愛撫し始め、衣服を剥がし初め……、それでも呆然としたままだった。
勢いづいた手はアンジェリークを傍らのベッドに押し倒した。
忙しなく自身も衣類を脱ぎ捨て、ミシリと音を立ててベッドに片膝を乗せのし掛かる。
クィーンサイズのベッドは、闇の守護聖と炎の守護聖、そしてアンジェリークを乗せても充分に余裕があった。されるがままになっていたアンジェリークが頭をクラヴィスの足を枕にしていると気付いたのは、身体にもたらされた未知の甘い痺れが胸や身体の奥を遅いはじめてからだった。
「お、オスカー様っ」
生暖かい舌が胸の膨らみを弄ぶ。
膝を割り入って彼の身体がのし掛かり、アンジェリークの身体の中心は指の動きに翻弄されていた。
「やっ、やだっ! オスカー様っ、いやあぁ、やめてっっ!」
アンジェリークは渾身の力を振り絞って逃れようともがくが、どんなに力一杯オスカーを押し戻しても彼の力にはかなうべくもない。難なく片手をベッドに縫いつけられ、体重で身体を押さえられては、例え一つの手が自由で彼の顔や肩を小さな拳で殴りつけてもまるで効果がない。それどころか彼女のささやかな抵抗に情欲を刺激されたのか、オスカーは尚一層愛撫に力を入れ、アンジェリークの心とは反した快楽を身体に刻み込んでゆく。
舌先が胸から首筋へと這いのぼる。
熱く荒い息が耳朶にかかり、舌が差し入れられる。
唾液に濡れたそれが彼女の耳をかき回し、逃れようと首を振る彼女の両手首をオスカーの手が捕らえた。
「……闇の守護聖なんか、忘れちゃえ…」
じっと見つめる瞳。
冴え渡るアイスブルーの瞳の中に燃える昏い炎に気付いた時、アンジェリークの全身を戦慄が包む。
「……誰……?」
ギラギラと燃えるように揺らぐ歪んだ欲望が、瞳の中に見える。
これは炎の守護聖ではない。
いや、容姿はまさしく彼のものであるが、どれほど報われぬ愛に身を焦がそうとも、どれほど切なげに瞳を潤ませようとも、彼の情熱がこんな歪んだ形であるわけがないのだ。
その事にようやく気付いたアンジェリークであったが、己の身体に触れている者が例え誰であろうと我慢できるはずもない。…そう、闇の守護聖以外は。
「放してっ」
オスカーであるものの顔に邪な笑みが浮かぶ。
アンジェリークの恐怖が限界にまで達する。
「いやぁっ、誰かっっ! 助けてっ、やだあぁぁっっ」
もはやとろけるように甘美な愛撫も熱く触れる肌も、何もかもがおぞましい、耐え難い程の悪寒と戦慄をしかもたらすものでしかなくなっていた。
Postscript
眠っているオスカーの意識を押さえ込み、アンジェリークを翻弄するディザイア。
アンジェリークが危ないっっ(爆)
彼女の貞操の危機よ(笑)……って、笑ってる場合じゃないって。
次回、乞うご期待っっ