vol.5
薄暗くなって人気の無くなってきた聖殿は、なんとなく薄気味が悪い。
てろりとした闇が、夕日に紅く染まる大気の隙間に忍び寄ってくる。
建物の影。
木の影。
家具の隙間。
そして人々の心の隙間にまで…。
飛空都市の至る所に生まれる影が、生命を持ったかのように蠢いて見える。
林立する石柱の回廊を歩きながら、女官は怯えたように周りを気にしていた。
自分が通り過ぎた後の闇が、何故か自分を見つめて追いかけてきているような気がしてならない。無言の威圧感が背後にひしひしと感じられた。
耳には聞こえない闇のざわめきが意識の中に滑り込み、心の闇を見つけて騒ぎ出す。
ざわざわ……
ざわ…
ざわざわざわ…
ざわざわざわ……
内なる喧噪から逃れようと、女官の足取りはどんどん速くなる。
ざわざわ……
ざわざわ…
ざわ……
現実の耳には何も聞こえてこないのに、女官の頭の中は無数の声が作り出すざわめきで一杯になってしまった。
とうとう走り出した彼女は、だがしかし、いくら走ろうともその声から逃れることが出来ずに半狂乱と化した。
「ひいっっ、ひっ、ひぃぃ」
獣じみた悲鳴を上げつつ、回廊を狂ったように走り回る彼女。
その姿はどこぞの惑星に伝わる鬼女のように、いかにも恐ろしげな、不吉なものとして、飛空都市を犯しつつあるものを実感させる。
高く結い上げた美しい黒髪はすっかり乱れ、恐怖の為ににじみ出た脂汗がどっと全身を包んだ。
いっ、ひっ、ぎゃぁぁぁぁ ─────
人のものとは思えないほどの異様な叫び声を耳にして、聖殿の周りをさりげなく巡回していた炎の守護聖は、すぐさま声のした方に向かって走った。
聖殿から右翼殿を繋ぐ真っ直ぐに延びた長い回廊。
声はそのあたりからだ。
彼がその回廊の片端に辿り着いたときはすでに辺りはしんと静まり返り、夕暮れの残光に照らし出された石柱の影が冷たい石の床に延びているばかりであった。
(…!? あれは……?)
油断なく辺りを見回す彼の目に、なにやらうずくまる物体が飛び込んでくる。
彼のいる聖殿側のはじとは反対側の、右翼殿の入口辺りに、ぼろぼろの布きれかゴミの山のようなものが置かれていた。
それを見つけるや否やオスカーは走り出し、間もなくそこに辿り着く。
「………くそっ…」
オスカーは悔しさの余り、ぎりりと唇を噛んだ。
それはぼろ布でもゴミの山でもなく、見知った女官であった。
黒い美しい髪と、同じ色の黒曜石のような瞳が印象的な美女であった。
そんな彼女は………。
今は誰が見てもとても同一人物とは思えないであろう。
豊かな黒髪は、今はばらばらにほどけて白髪と化し、恐怖にゆがんだ顔と、そして見開かれたまま輝きを無くした瞳…。意識があるのかないのか分からないが、口は何かを訴えかけるように上下にがくがく動き続けていた。
オスカーは苦しげに顔を歪ませ、もはや生きる屍と化した女官を抱き上げて回廊を戻っていったのだった。
「クラヴィス様…、これを飲んで……」
アンジェリークはカップを彼の口元に運んだが、軽く開かれた口は陶器の冷たい感触にあたってもぴくりともしない。
エメラルドの瞳が悲しげにくすみ、彼女は自分の口にカップの中身を含むとそっと唇をクラヴィスのそれに押し付ける。
「………」
液体を受けとめた彼の口は、条件反射でそれをのみ込んだ。
アンジェリークは全てを流し込むと、唇を離す。
そのはずみで口の端から一筋、液が伝った。
「クラヴィス様………」
(泣かないっ。泣いちゃダメ……)
拳を握りしめて泣き出しそうになるのを必死で堪える。
そして、ぐっと顔を上げて微笑むと、クラヴィスの口の端に垂れた薬を舌先でペロリッと舐め取った。
「ちょっと、ジュリアス様の所に行って来ますね。……また、来ます」
クラヴィスの瞳は虚ろに宙を見据えたままであった。
アンジェリークの言葉に気付いた様子もなく、また、自分がどこにいて何をしているかさえも分かっていないようだ。
そんな様子の彼を残して、アンジェリークは部屋を出ると後ろ手に扉を閉めた。
「……出かけるのか?」
途端、声を掛けられてアンジェリークはビクッとして声のした方を降り仰いだ。
「オスカー様………」
ふいをつかれたせいで、表情を取り繕う暇もなかった。
今にも泣き出しそうな顔は、あれから精一杯虚勢を張っていたことを、ちょっとしたことでもすぐにその虚勢の仮面が剥がれてしまうことを、すっかり物語ってしまっている。
「……」
無言のまま、オスカーはアンジェリークの腕を掴んで自分の胸の中に引き込むと、強く、抱きしめた。
「お、オスカー……さ…ま…?」
「……泣きたい時は泣いた方がいい」
アンジェリークを腕に捉えたまま壁に寄りかかると、オスカーはやさしく髪を撫でる。
何度も、何度も……。
やがて静かな回廊に微かな嗚咽の声が響いた。
ぐっと唇を噛みしめたオスカーは、金の髪を弄びながら頭のてっぺんに軽く口付ける。
このままどこかへ連れ去ってしまいたかった。
そうしてしまいそうな自分を堪えるために、今までに培ってきた精神力を全て注がなければならない。それ程にその衝動は激しく、オスカーを突き上げる。
自分の腕の中で細かく肩を振るわせている彼女が、今、誰の事を思って誰の為に涙しているのか分かっていてさえ、その想いは彼を嵐の中の小舟のように翻弄した。
─── あれから……。
ジュリアス、パスハ、ルヴァ、オスカー、リュミエール、オリヴィエらが見守る中、クラヴィスはアンジェリークのとなりに並んで横たわり、意識を飛ばした。
見た目にはなんの変化もなく、一時間ほど過ぎたであろうか。
突如としてアンジェリークの瞳がぱちっと開き ─── それは本当に何の前触れもなく ─── 驚きの余り何のリアクションも出来ないでいる一同には目もくれず、隣に横たわるクラヴィスを見つけるととりすがって大声を張り上げた。
『クラヴィス様ぁぁぁ!!』
心の奥底から絞り出した、悲哀に満ちた声。
これほど悲痛な声を、その場にいる誰一人として未だかつて聞いたことがなかった。
生きたまま心臓を掴み出されたら…、ひょっとしてこんなにも痛々しい叫び声をあげるのかもしれない…。
リュミエールはふとそう思い、まるで自分がそうされたかのように胸を押さえてギュッと目を閉じた。
「アンジェリークっ」
「アンジェ」
一同がそれぞれ彼女に呼びかけながら取り巻くと、静かに目を閉じて横たわるクラヴィスに取りすがって泣くアンジェリークに目を落とす。
「何があった、アンジェリークっ。クラヴィスはどうした!?」
常日頃の冷静さはどこへいったのか、ジュリアスがたたみ込むように彼女に問いかける。
「アンジェ………、泣いてちゃわからないよ。…どうしたの?」
そっと背中から肩を抱いて言うオリヴィエに、アンジェリークはようやく頷いて、しゃくり上げながらも意識世界で起きた出来事を告げた。…といっても、アンジェリークが覚醒してからの出来事だけではあったが。
しかし、それでも話の前後を繋げれば、その場にいる皆が状況を理解したようだ。
「それはつまり、クラヴィスがその黒い闇の獣に捕獲されてしまった……ということですね。う~~ん」
「“ナイトメア”かな……? 馬の姿をしているって?」
「は…い」
オリヴィエの瞳が深い場所で煌めいた。
夢を司る彼としては、己の領分で起きた出来事に一肌脱がない訳にはいかない。まして、同僚が捉えられているとするならば、尚更だ。
「いえ、多分“ナイトメア”とはちょっと違うでしょうね。えー、その名で呼ばれることもあるようですが。それにしては、持つ力が余りにも強大すぎます。ねぇ? ジュリアス」
「そうだな。クラヴィスはあれでも闇の守護聖だ。力は守護聖の筆頭である私と同じ……いや、おそらく私よりも大きいであろう。たかがナイトメアごときの戒め、振り解けぬはずがない」
ルヴァはジュリアスの言葉に深く頷いてみせた。
「それ程の力を持つクラヴィスの意識を捉えて、なおかつ、自分の領分の闇を持つナイトメアなんて、聞いたこともないですよー。でもですね……」
ルヴァは言いながら己の考えの中に沈み込んでいこうとする。
その肩を乱暴に揺すぶって現実に引き戻すと、オリヴィエは引きつった笑いを彼に向けた。
「ルヴァ……」
「あっ、はいはい、すいませんねー。つい…。その闇の獣は、深層宇宙の中に自分のテリトリーとする闇を持っていた。そしてそれは守護聖の力にも匹敵するほど……。
皆さんは覚えておられるでしょうねー、先頃聖地を吹き荒らした“ソリティア”と言う名の嵐を…」
「忘れるはずが……なかろう」
ジュリアスはきつく眉根を寄せてルヴァを睨む。
あの折、ソリティアに隙を付け入られたのはジュリアスである。彼の誇りを深く傷つけたあの事件を、彼は忘れたくとも忘れられるはずがない。
「その嵐がどうだって言うんだ、ルヴァ? 今回のことと何か関係があるのか?」
ジュリアスを庇うように、オスカーが口を挟んだ。
ルヴァが困ったように首を傾げる。
「うーーん……。一見、何の関係もないように見えますがね…。ひょっとすると厳密に言えばやっぱり関係ないのかもしれないし……」
「だーかーらっっ、一体何なのよっ、はっきりしなさいってばっ!」
「あっ、はいはい…。ですから、あれは守護聖の念が聖地にわだかまり、吹き出す先を探していた結果おこった出来事だと思うんですよ。…まあそのー…、他にもいろいろと原因はあるでしょうがね」
あまりにも回りくどい地の守護聖にしびれを切らしてオリヴィエがつめよる。
「あんたねぇ~、私達に喧嘩売ってるわけぇ~!? ソリティアのことはいいから、本題に入りなさいよっ、本題にっ!」
「オリヴィエ…。いくらルヴァ様でもここまで前置きなさると言うことは、それだけ言いにくいことなんでしょう。落ちついてください」
リュミエールにやんわりと窘められ、ようやくオリヴィエは大きく一つ深呼吸をして落ちついた。クラヴィスの身を案じてもいるのだが、正確に言えば、彼を痛々しいまでに気遣うアンジェリークを心配してのことだった。
オリヴィエは急く心を得意の抑制心の下に押さえ込む。
「……で??」
「すいませんね…。やはりちょっと口にするまで決心がいるみたいです。もうちょっと戯言に付き合ってください。あー、でもそれ程長いことじゃありませんから」
そうして話し始めたルヴァの言葉に、一同は声も出せずに聞き入っていた。
「まず、先頃のソリティアの事件は、現実にある聖地で起こったことでした。それは人の身体を乗っ取って意識を封じ込める……ような現象でした。
ソリティアは、聖地に己の闇の領域を持っていて、それで人の意識を乗っ取った…。
今回のナイトメアは、意識世界に己の領域を持っています。意識世界ならば当然のごとく入るべき器はありません。となると…、その意識を捕縛するのが……当然の成り行きではないかと、私は思うんですね。
しかし、です。
意識世界というのは、縛られるべき器がないだけに、その人の本質というか本来持っている力が具現されると私は考えています。ですから、そうとうに大きな力をもったクラヴィスを捕獲するのであれば、それ以上の力を持つものでないとダメ、ということですね。
本来ナイトメアと呼ばれるモノは、闇の世界に己のテリトリーを持つほどの力はないのです。それに、守護聖の意識どころか普通の人間の意識を捕縛する程の力すら持っていないはずです。せいぜいが人の意識のテリトリーの中に侵入して、深層に潜む恐怖や不安の感情を引き出すぐらいです。つまり、それが悪夢となるわけですが。
と、以上のことから推論するに……今回クラヴィスを捕まえたナイトメアは、目的は未だ定かではありませんが、とにかくソリティアと同様に聖地にいる我々に対して働きかけ、己の領分を持ち、しかも我々守護聖よりも強大な力を持っている。
……ソリティアの正体は我々守護聖の捨てた心でした。
となると……このナイトメアは、いえ、この闇の獣はおそらく……“ディザイア”…と呼ばれるものでしょう」
ここまで一息に語ったルヴァは、喉が乾いたのか水を所望した。
パスハが急ぎ部屋を出て行く。
「まさか……その“ディザイア”というのは……」
ジュリアスが顔を強張らせて訊ねる。
間もなく戻ってきたパスハからカップを受け取り喉を湿らすと、ルヴァはジュリアスを悲しげに見つめて頷いた。
「ジュリアス、あなたの推論は間違いではないと思います。聖地において、隠された伝説となっている“ディザイア”と言う名のナイトメア…。それは宇宙における至高の存在が生み出した悲しい欲望でしょう。至高の存在とは……もちろん……」
ルヴァは最後まで言うことが出来ずに目を伏せた。
だが、その場にいる誰もが、後に続く言葉を理解していたのだった。
急ぎ、聖地にいる女王陛下に報告がもたらされた。
そして闇の守護聖はあれから間もなくして意識を取り戻したのだ。
否。
肉体は覚醒した……と言うべきであろう。
ルヴァの仮説によると、クラヴィスの力が大きすぎて完全には捕縛出来ずにいるのであろうという事らしい。
肉体は覚醒しても意識がないので、彼はまるで人形のようになすがままであった。
生存本能が促すものは普通の時と同じなので、口の中に入れてやれば咀嚼し、のみ込む。ベッドに入れて瞼を閉じてやれば、─── ほんの短い時間ではあるが ─── 眠る。もちろん、排泄さえも自然にまかせてしまう。
そんな状態のクラヴィスの世話を、アンジェリークは誰にも翻すことの出来ぬ決意でもって女王陛下に願い出た。
それは最初、当然却下されたが、余りにも強いアンジェリークの決意にしまいには女王陛下も折れ、聖殿にクラヴィスの寝所を移し、そこにアンジェリークも寝泊まりして、そして試験を続行する……という条件のもとに許されたのであった。
元の宇宙が危機的な状況にある今、試験を中断する訳にはいかなかったのだ。
ジュリアスやルヴァ、パスハらがクラヴィスを救うべく奔走するうちに、すでに三週間もの日々が流れていたのである。
その間、聖殿は徐々に不気味な闇に浸食されつつあった。
ディザイアの仕業によるものと思われる事件が起き始めていたのである。
意識を奪われた普通の人間はよくて植物状態か廃人、最悪の場合はそのまま死に至る。犠牲者はすでに十人を越えていた。───
「もう………見ていられない……」
オスカーは金色の髪に顔を埋めながら囁いた。
「強いな……君は……。誰にも泣き顔を見せないようにと……極限まで神経を張りつめている…。でも張りつめた糸はちょっと触れただけでも切れてしまうものだ。
アンジェリーク……俺は、そんな痛々しい君を見ていると………狂いそうだ…」
「オスカー様……」
彼の心遣いは本当に嬉しかった。
自分を気遣ってくれる優しさに応えたかった。
それが出来たなら、どんなに楽なことだろうと思う。
でも…。
それでも、彼女の心が求める面影は………一人だけだ。
「ごめんなさい……オスカー様……私……」
「いや、いい。何も言わなくていい。
泣きたくなったら…、本当に辛いときは俺の胸で泣いてくれ…。
せめて君の愛しい人が戻ってくるまでは…」
アンジェリークは声もなく、何度も何度も頷いた。
力強く、優しい腕の温もり。
真に求める腕は違えども、今はこの腕の主に感謝の心全てを捧げたい。
そう思ったアンジェリークはただ黙ってオスカーの身体を強く抱き返した。
Postscript生ける人形と化したクラヴィス。果たして彼の魂を取り戻す方法はあるのだろうか?
その間にも着々と力を蓄えつつある“ディザイア”。
オスカーの切ない愛も、こんな状況なだけにやり切れなさだけが募っていく。
早くなんとかせいっ! アンジェっっ
(アンジェを叱ってどーするっっ。なんとかするのは私だっつーの…(^_^;;)