vol.4
闇はたゆたい、果てしなく続く。
どこまでも……。
光と闇の境ははっきりとしているのに、その反対側は一体どうなっているのだろうか…?
(アンジェリーク…どこにいる…?)
深い闇の淵を漂うクラヴィスは、その微かな魂の糸をたぐりながら沈んでいた。
彼女を連れ戻すことは容易いことであるが、問題は……。
(あの黒い影が…、あれがアンジェリークを連れて?)
やがてクラヴィスの目に金色に輝く光が見えた。
(アンジェリーク)
それが彼女の魂であることは間違いない。
あのように稀有な輝きを放つものなど、そうそういないであろう。見間違うはずもなかった。
だが…。
彼女のもとに近づこうとしたクラヴィスの前に闇がわだかまる。
彼の秀麗な顔が険しく歪み、その正体を見極めようと心の目を凝らす。
“やっぱり来たね”
闇が言った。
たゆたう闇よりも更に濃い闇が、その形を成してゆく。
(馬……か? ………!!)
その禍々しい姿。
昏い炎のたてがみを纏い、金色に燃え立つ瞳に宿す光は妄執。
その姿を目の当たりにした時、クラヴィスはやっと相手の正体が分かった。
『……ナイトメア』
“その名前でも呼ばれるね”
黒馬は蹄で闇をかきながら、軽く鼻を鳴らした。
“でも僕は人間が呼ぶ ───ナイトメア(悪夢)─── じゃない。至高の存在が生み出した、───ディザイア(欲望)─── だ”
(至高の存在……ま……さか……!!)
黒馬は、真っ赤な舌をぺろりっと出し、まるで人のように舌なめずりすると、歯をむき出して笑った。
“取り返しに来たんだろう? あの天使を”
『アンジェリークを返して貰う…』
“さて……。天使様はもう僕のものだ。あんたの所には、戻らないと思うけど…?”
『……』
クラヴィスは彼を睨み付けた。
普通の人間であれば、その眼光だけで震え上がってしまうほどの気迫が込められていたが、ディザイアはふんっと鼻であしらう。
それを無視して、彼はディザイアを避けて後ろに回り込み、アンジェリークの元に急いだ。
先より続く嫌な予感が胸を締め付ける。
(まだ……大丈夫だ……。まだ…アンジェリークの命の糸は途切れていないっ)
凶兆を振り払い、クラヴィスは急ぐ。
その手足に、次第に闇は重くねっとりとまとわりついてくる。
焦る想いと裏腹にどんどんスピードは落ちてきたが、それでもようやく彼女の元に辿り着くと、クラヴィスは愕然とした。
金色に輝くアンジェリークの魂は、身体を丸めて胎児のように眠っていた。
そのままであったなら、その魂をかき抱き、身体のある光の方へ戻ればいいだけであった。しかし、その身体は…。
『この縛めは……』
細く白い身体に食い込んだイバラ。
無数の棘が柔肌に刺さり、鮮やかな色の血がにじみ出ていた。
“キレイだろう? ……誤解しないでね。それは僕がやったんじゃない。彼女が自ら生み出したものさ”
『……なに?』
“当たり前じゃないか…。ここは彼女の意識から繋がる闇の底だよ? 僕がどうこう出来るもんじゃないさ…。まっ…ちょっとだけ、力を貸したけどもね”
ディザイアは鼻を鳴らすと、息も荒くいなないた。
まるで……。そうまるであざ笑っているかのようだ。
クラヴィスはギリッと奥歯を噛みしめる。
ここでぐすぐすしている暇はない。アンジェリークの身体は刻々と衰弱しているのだ。
“彼女はもう僕の闇の中に落ちたも同然さ。…ほら、こんなに魂を繋ぐ糸が細くなってる”
『……』
“僕は何もしてやいない。彼女の望む夢を見せただけだ。……その夢に転がり落ちてきたのは彼女のほうだよ。現実に絶望して、嘘でもいいから一時の安らぎに包まれたくて…”
『……黙れ』
“普通の人間に、この闇の力は毒だろうねぇ。意識を保っていられなくって、自らが汚した闇に同化するのさ。……そう、この僕と。……彼女は……これからいつも僕と一緒だ。ちっとも淋しいことなんかないさ”
『黙れっっ!』
クラヴィスの、ついぞ聞いた事の無いほどの魂の叫びが、轟音となって闇の世界を轟かす。
取り巻く闇がその叫びに反響して震え、世界は天変地異を迎えたかのようにぐらぐら揺れてカオスの様相を見せた。
“なっ!! …………さすがは、闇の守護聖様だね。…ちょっと驚いたよ。だけど忘れちゃいけない。ここはまだ彼女の意識のテリトリーだ”
ディザイアの瞳に僅かな怯えの色が走ったが、クラヴィスはそれに気付かなかった。
(そうだっ。ここはまだアンジェリークの……)
クラヴィスがその強大な力を放てば、アンジェリークの意識世界は跡形もなく崩壊してしまうであろう。意識世界が無くなってしまえば、もはや転生することもかなわない。
クラヴィスはどうすることも出来ないまま、余りの歯がゆさに狂ってしまいそうだった。
(どうすればいい…? どうすれば………)
しかし……その時であった。
己の意識世界が大きく揺るがされたせいか……。
それとも何かを感じたのであろうか……?
僅かではあるが、アンジェリークの身体がピクリと動き…………そして。
『く……ら…う゛ぃ…すさ………ま?』
『アンジェリーク!』
驚いた事に、彼女は意識を開いたのである。
そしてクラヴィスはその絶好の機を逃すことはなかった。
『アンジェリーク』
優しい声で呼ばれる己の名に、アンジェリークはうっすらと微笑みを浮かべた。いまだ、幸福な夢を見ているかのように。
『クラヴィス様…』
クラヴィスはもう躊躇しなかった。
自分の肌が傷付くことなどかまわずに、イバラを絡ませたままのアンジェリークの身体をかきいだく。
『……すまなかった……』
『クラヴィス様…?』
『お前を傷つけた』
『えっ?』
夢見るように闇の守護聖の端正な顔を見つめていたアンジェリークは、肌に伝わる痛みにはっと我に返った。
『私……?』
『私は自分の浅ましい嫉妬を、苦しさのあまりおまえにぶつけてしまった。…正直に言えば良かったのだ。おまえをこれほど傷つけてしまう前に…。
─── 私だけを……見つめていて欲しい……と…… ───』
アンジェリークはあの晩のことを思い出した。
クラヴィスの言葉はそのまま自分を責め続け、もう彼が会ってくれないだろうことがさらに恐怖心や後悔を煽り…。心から血を流して、泣きながら眠りについた。
そして思った。
─── もう、彼が自分に微笑みかけてくれることはないだろう……と。
─── 自分を愛してくれることはないだろう……と。
『クラヴィス様……、私…』
『何も言うな……。私が愚かだったのだ。
─── 愛してるアンジェリーク…。お前だけを』
冷たい唇が触れた。
熱を感じないのに、身体が、魂が熱く昂揚してゆく。
そして震えた。
魂が真実の愛を受けとめて。
嘘を付くことなどできぬ、魂同士の触れ合いで、紛うことなき慈しみの心が流れ込んでくる。
アンジェリークの目から一筋、涙が零れていった。
頬を伝った涙の滴がイバラに落ち、傷付いた心が癒されていくのを示すように戒めはだんだんと解けてゆく。
“感動の再開だったね。……お別れのキスは終わったかい?”
僅かに苛立ちを込めた声色に、アンジェリークは少し離れた所からこちらを凝視しているディザイアの姿を見つける。
『あなたは……』
アンジェリークは何故か彼を知っているような気がした。
“………まさか……目覚めてしまうとはね……。さすが……女王……。こうなったら、僕もぐずくずしてる訳にはいかないな”
ディザイアは一声高くいななき、乱暴に前足を踏み鳴らした。
途端、意識世界は先程闇の力の片鱗を受けたときのように振動し始め、闇が混沌とした汚泥と化してゆく。それは二人の足元近くまで浸食して行くと、そこからパリパリと音を立てて亀裂を生み出した。
『いかんっ』
アンジェリークの意識界と、混沌の世界が二つに割れようとしていた。
混沌の世界はディザイアのいななきに導かれて、どんどん下へと落ちて行く。そしてアンジェリークに絡み付いていたイバラの根は、その混沌の世界に張っていた…。
がくんっとアンジェリークの身体が引っ張られる。
『きゃぁっ!!』
『アンジェリークっ』
クラヴィスは渾身の力を込めてイバラを引き剥がす。
二人の肌が血に染まり、全身におびただしい傷跡が付けられる。
そしてやっとの事でアンジェリークの身体を引き剥がすことに成功したクラヴィスが彼女を抱えてそこを離れようとしたとき……。
『!!』
別のイバラがクラヴィスの両足を縛めていた。
『くっ…!』
『クラヴィス様!』
クラヴィスが幾ら引きちぎろうとしても、それは蛭のように吸い付いて離れない。
“それは……はずせないよ……。だって、僕の…イバラだもの”
『クラヴィス様、クラヴィス様っ』
アンジェリークも必死でイバラを引っ張っているが、ビクともしない。
『行けっ』
『いやっ』
『いいから、ゆけっ!』
混沌の世界から別のイバラがアンジェリークに向かって延びてきているのを見つけたクラヴィスは、渾身の力を込めてアンジェリークの魂を光の方に突き飛ばした。
『いやぁっ! クラヴィス様ぁっ!!』
現実にある身体が魂を引き寄せる力も手伝って、アンジェリークの魂は物凄い勢いで光の方に向かってゆく。
『アンジェリークは…渡さん』
完全にアンジェリークの意識界から分離された混沌は、クラヴィスを引きずったまま闇の奥底へと落ちていった。
Postscript
クラヴィスの魂を捉えて、アンジェリークの意識深くの混沌に墜ちていったディザイア。
せっかく思いが伝わって、アンジェリークの魂をいったんは捕まえたのに…。
クラヴィス様、かわいそすぎます(T_T)
(自分で書いていうか……それを)
えーん、どうするのよっ! アンジェっっ