vol.3
……暗い……昏い……。
ねっとりとまとわりつくような闇の中で、何故かアンジェリークは安らいでいた。
(もう……、どこにも行きたくない……。このままここで静かに眠っていたい…)
クラヴィスに冷たく突き放され、アンジェリークの心はずたずたに切り裂かれて血を流していた。
─── 逢いたい………
でも……逢えない…
もうきっと逢ってくれない… ───
悲しくて切なくて、心が千切れそうだ。
もし、その辛い気持ちが消えて、あの夜以前のちょっぴり切ないけれど幸せで暖かな気持ちに戻れるならば、アンジェリークはどんな犠牲でもはらうであろう。
しかしもう遅い。
…クラヴィスは自分を嫌ってしまったに違いないと、そう思うと五感が麻痺してしまったような絶望感に襲われるのであった。
その傷口に、泥のような闇がゆっくりと浸透して行く。
麻薬のように甘美に……。
“何も考えなくていいよ”
闇が囁く。
“ここは誰もこない。誰もこれない。貴方と僕だけの場所。何もかも忘れて眠るといい”
もやもやとした闇が…。
闇の中でもよりいっそう濃い闇が。
ゆっくりとその形を変え、輪郭を造りだしてゆく。
“……未来永劫…、ずっと…”
闇が燃え立つ。
四本の足と、精悍な首。そして炎のたてがみと尾。
馬だ。
艶やかな黒毛の馬。
燃えるたてがみと尾をのぞけば、普通の馬となんら変わりはない。
それが一体何であるのか、アンジェリークは考えるのすら億劫になっていた。
(現実のあの方が私の事お嫌いなら……。もう、そんな現実に戻りたくない。夢でもいい…。このあの方の髪の色した闇の中で……ずっと……何も考えずに……)
薄れゆく意識の中で、今いる場所よりも遙か深い所に落ちてゆくのを感じていた。
『至急、殿上するように』
そんな知らせが、眠れぬ夜を過ごしてただ虚ろに窓の外を眺めていたクラヴィスのもとに届いた。
(そんな気になれぬ…)
今日は水晶球すら眺める気にもなれずに、怠惰にソファに座っていただけであった。
もし水晶球を覗いていたとしたら…、闇に漂うアンジェリークの姿を見つけていたかもしれないのではあるが……。
何の望みも捨てていた筈のクラヴィスであったが、昨夜、アンジェリークに投げつけた己自身の言葉で、知らずに儚い希望を抱いていたことを知った。
人に恐れられ、嫌われることなど馴れている。
それがいま一人増えた所で、彼には何の変わりもないはずであった。
そう、いつもと変わりない日々が、滔々と大河のように流れてゆくだけだ。
ところがどうであろうか。
たかが一人の少女に嫌われてしまったことに打ちのめされて、呼吸することすら鬱陶しいぐらいに落ち込んでいるのだ。
クラヴィスは光の守護聖からの招集命令を無視した。
しかし、一時間とたたぬうちに、再度呼び出しがかかる。
『火急の事態である。大至急、正殿広間に来るように』
それでもクラヴィスは動こうとしなかった。
(最初から、宇宙が……世界がどうなろうと……私には関係のないことではないか…)
そして今では更にその思いが強くなっている。
(まして……アンジェリークが私のそばにいない世界など……)
あの時のアンジェリークの瞳が瞼の裏から離れない。
……傷付いて、怯えた瞳……。
どうしてあんなふうに言ってしまったのか……。
ただ、彼女が自分以外の人間と親しげに話すのが嫌だった。
あの時まで、少なくとも嫌われてはいなかった筈だ、と、クラヴィスは自分を慰めるが、もちろんそんなことは気休めにもなりはしない。あの瞳にショックを受けて彼女の後を追うことすら出来ずにいたことを後悔したとて、それも厭われてしまった後では何の意味も持たなかった。
やがて、未だそのままソファに座ったきり動く気配すら感じさせぬ彼の元に、正殿から使者がやってきた。
その者が、制止する執事をまるで無視してどかどか彼の寝室に乗り込んで来たとき、さすがのクラヴィスも驚いて目を見張ってしまったのであった。
「お前は何をしているっ!
火急の事態だと言ったであろう!!」
乱暴に扉を開けてそう言い放ったのは、紛れもなく首座の守護聖、ジュリアスであった。
「……世界の危機だろうが何だろうが……、私一人いなくとも何とかなるであろう…?」
常ならば、いくら怠惰だ職務怠慢だなどと言われてもそこまでは言う筈のないクラヴィスであったが、今は酷く投げやりになっている。本心から、『もうどうでもいい』と思っているのだ。従って自然に口をついて出た言葉は、仮にも守護聖と呼ばれる者がはく言葉ではなかった。
当然、いつものように自分を咎める言葉が降ってくるものと、思っていた。
「……何が……あった?」
しかしジュリアスはふっと激した感情を鎮めさせ、静かに、だが、だからこそ事の大きさを物語るような深刻な声でクラヴィスに問いかけたのだ。
「夕べ……オスカーと別れた後、アンジェリークとの間に何があったのだ?」
「なぜっ、…!」
『なぜお前がそれを?』と言いかけて、クラヴィスははっと息を飲んだ。
「アンジェリーク!? アンジェリークに何かあったのかっ!!」
それまでとはうって変わった激しい反応にジュリアスは確信した。
「やはり、お前とアンジェリークの間で何かが起こったのだな」
「……」
クラヴィスは言葉に詰まって黙り込む。
「何があった?」
「……」
「クラヴィス!?」
「……」
ジュリアスは深く溜息をついた。
「アンジェリークが目覚めない」
「!?」
クラヴィスは一瞬理解できずにジュリアスの顔を凝視した。
「昨夜よりの眠りから目覚めぬのだ。─── 何をしても…」
「……なぜだ……」
「それが分かれば苦労はせぬっ」
苛立たしげにジュリアスはクラヴィスを睨み付けた。
だがすぐに、そんなことをしても仕方ないとばかりに、窓際に近寄り、厚いカーテンを開いた。
「眠りを司る力の一つとして、オリヴィエにアンジェリークの夢に行ってもらった。しかし、彼女は夢を見ていなかった。────……あとは……お前だ」
「………」
「眠りの安らぎの淵に彼女がいるのならば、連れ戻せ」
「………い」
「何?」
「……そこにアンジェリークはいない……。…少なくとも、私の知る範囲では」
今、クラヴィスの闇の翼に、アンジェリークの魂は触れていない。彼の統べる闇の中にいないか、或いは彼の翼も及ばない場所にいるのか……。
「ならばどこに!」
「……分からん」
クラヴィスは表情を変えぬまますっと立ち上がると、扉に向かって歩いて行く。
「何処へ行く!?」
「アンジェリークの……身体のある所へ」
「ジュリアス様!」
ジュリアスとクラヴィスの両名がアンジェリークの部屋へ足を踏み入れた途端、声が降ってきた。
女王候補の状態を調べる為に王立研究院からパスハが来ていたのである。
彼女をへたに動かすのはよくないと判断したためであった。
「………」
クラヴィスは苦しげにアンジェリークを見つめた。
青白い頬、閉じられた瞳。
唇も心なしか色を失って、その身体からは生のエネルギーが感じられない。
(アンジェリーク……)
彼女を見つめるクラヴィスを、何故か複雑な表情で見守るジュリアスに、パスハは状況の報告を始める。
「女王候補の状態をいろいろと調査いたしましたところ、どうやら仮死状態に近いと思われます」
「仮死状態!?」
「はい。脳波に睡眠の状態を表す波は見られず、それどころか……脳波を発していません」
手渡された記録に、ジュリアスがさっと目を通す。
「生命を維持する機能器官は、最低限の動きを見せておりますが、脳波だけは全くです。……この状態は……」
「遊星盤を使用している時と同じ状態……ということだな」
「はい」
遊星盤を使用している時、つまり、彼女達が大陸に降りる時は、実際に身体が移動する訳ではなく、魂のみが投出される。むろん、身体ごと転送する場合や移動する手段もあるが、それは特別な場合や守護聖達がお忍びで下界に羽を伸ばしにいく時などに使用されるもので、アンジェリーク達女王候補は大陸の視察には主に遊星盤を使用していた。
その時は、王立研究院の転移の間で身体のみがひっそりと横たわっている状態になるのだ。もちろん幾ばくかの危険も伴うが、それは生命を脅かすほどのものではない。
それだけこの遊星盤は研究院の総力をあげて管理されているということなのだ。
しかしその恩恵を受けず、魂の投出を行った場合……。
常に死と隣り合わせの危険がつきまとう。
もし、己の魂の戻るべき場所を見失い、迷子になってしまったとしたら……。
身体はどんどん衰弱し、そしてその機能を停止して……、死に至る。
「何ということだ…」
ジュリアスは目頭を押さえて呻いた。
「なぜ……あんな所に……?」
ジュリアスがパスハとの会話に気を取られている間、クラヴィスは青白いアンジェリークの額に手を当て、なにやら瞑想していたが、やがて苦しげに言葉を吐き出した。
「……アンジェリークは………眠りの淵よりも、安らぎの闇の中よりも更に深く、もっとも死に近い闇に沈んでいる……」
「なんだとっ!?」
「アンジェリークの身体から繋がる細い魂の糸を辿っていったのだ、間違いない……。しかし…なぜ……? どうして……? あのような場所に……案内もなしに一人で迷い込むはずがない……」
己の考えに沈もうとしたクラヴィスの視界の隅に、黒い陰がちらりと動く。
(……何!?)
目を凝らし、アンジェリークの身体を再度眺めてみる。
「こ……れは……」
アンジェリークの身体にまとわりつく陰……。
それは彼女の手と足を縛り付けるかのように幾重にも巻き付いていた。
「クラヴィスっ、どうした? 何があったっ?」
クラヴィスは黙ってジュリアスの手を取る。
「……見えるか……」
クラヴィスの力を受けて、ジュリアスの目にもアンジェリークを縛めているものが見えた。
「……なんだ……あれは……?」
「死の……兆候だ。だが、………これはどうやら少し違うらしい」
クラヴィスはアンジェリークの大陸に降りて見た事をかいつまんで彼に説明した。
「……というと……、アンジェリークにまとわりついているこれは、あの時の負の力だというのか?」
「いや、多分……それとも少しちがうであろうな…」
クラヴィスはじっとアンジェリークの顔を見る。
“クラヴィス様っ”
昨夜、確かに自分の思いは結末を知ったはずであるのに、目を閉じても浮かんでくるのはアンジェリークの笑顔ばかり。
“ねぇ、クラヴィス様ってばっ”
甘えるようにねだる少女の媚態。
“クラヴィス様のいじわる…”
少しすねて頬を膨らます…。
どんな彼女の表情も、クラヴィスの心を惹き付けてやまない。
(……アンジェリーク……)
「……一体どのようにすればよいのだ……クラヴィス…?」
ジュリアスももう、なりふりかまっていられなかった。
一番頼りたくない相手ではあるが、アンジェリークの安否にはかえられない。
「……それほど、女王候補が大事か?」
「クラヴィス!」
「…いや、当たり前のことだな。………私ですら………そうだから……な」
クラヴィスは一向に目を開く気配のないアンジェリークの頬に長い指を添え、そっと撫でてみる。
冷たい……、それは死人のごとく冷たい頬の感触だった。
「私が行く」
「何っ!?」
「私が魂を投出して、アンジェリークを連れ戻してくる」
「クラヴィス…」
緊迫した会話の連続にパスハは口を出すことも出来ず、二人を交互にみるばかりであった。
Postscript
ようやく、タイトルの方(??)登場です。
でもすぐひっこんじゃってますが…。(^o^;;
とうとう、クラヴィス様、決心しましたね。…ふっ……。
立場ないぞ、ジュリアス様・パスハ組。
でもしょうがない…。クラ様主役だから(^o^@