第壱章其ノ八
「行きなさい、頼久っ」
友雅が声を張り上げたその時、三人とは違う方向に顔が向いていたあかねは、思わぬ光景を目にして、頼久の上でぐっと上半身を持ち上げて叫んでいた。
「泰明さんっっ!」
その叫びに一瞬、三人の視線が境内の奥の方へと注がれる。
そこに見知った人影が二つ、置き去りにされたようにポツンと見えた。
「泰明さんっっ!?」
佇む一つの人影はラン。
そして地に跪き、片手を高々と漆黒の瘴気の渦に捉えられているのは紛れもなく捜し求める泰明の姿だった。
クリーム色のシャツは今や鮮血で紅く染めあがり、一つに後でまとめられている髪も乱れて、怨霊さながらの様相を宿している。
その緋色に縁取られた、痛々しい泰明の姿を目にするなり、あかねは頼久の上で狂ったようにもがき出したのだ。
「泰明さんっっ! 泰明さんっっっ!!」
ふいを付かれた頼久の腕からほとんど転げるように下に降りると、あかねは真っ直ぐに泰明の方へ走り出した。
もう周りなど目にはいろうはずもない。
想い人の凄まじい姿に視界は霞み、身体が震えてくる。
しかしそれでも真っ直ぐに彼の元に走る足は止まることはなかった。
「ランっ、あかねっっ!!」
「神子!」
「神子殿っっ!」
傍らの森から次々と半透明の姿を表す義勇軍の亡霊など、今や天真、友雅、頼久の、そしてあかねの眼中にすらはいらない。ひたすらにそれぞれの一番大切な人の身を案じ、四人がランと泰明の方へと走り出したのだ。
「泰明さんっ!」
泰明の、白く靄がかったような視界にも、微かに走り寄る人影が映る。
間違えようもない、柔らかな、そして暖かい神子の声。
今はそれに悲痛な響きが加わり、泰明の視界を徐々にクリアにしてゆく。
「きゃああああぁぁっ!」
「神子っっ!」
あかねの悲鳴と、そして己の叫びではっきりと意識を取り戻した泰明は、二人の間に地面から湧き出すように立ちあがる義勇軍の亡霊の姿を認めた。
「くっ! 神子っっ!」
ゆっくりと立ちはだかる亡霊は高々とサーベルを振り上げ、立ち竦んで驚愕に目を見開くあかねの上に、今にも振り下ろさんばかりだ。
後続の天真や友雅、頼久達が彼女を守るべく走り寄ってはいるが、その距離では間に合わない。
「神子っ!」
「っ!!!!」
─── その瞬間、あかねは身体を固くしてぎゅっと目を閉じる。
間もなく来るであろう痛みと衝撃に、反射的に身体が備えていた。
「……………??」
しかし、その衝撃は一向に訪れてこなかった。
恐る恐る目を開いたあかねの前に、無残にも緋色に色を変えた泰明のシャツがある。
「…え? 泰明さん……?」
声を掛けた途端、泰明の身体がぐらりと揺れ………。
とっさに彼の方に差し伸べた手で、あかねは倒れゆく泰明の身体を支えた。
しかし、彼女の細腕で力の抜けきった彼の身体を支え切れるはずもなく、あかねは泰明とともにその場に尻餅をつくように座りこんでしまったのだ。
あかねに危害が加えられるその瞬間、泰明は己の右腕を瘴気の中から皮膚一枚と肉少々を犠牲にして無理矢理引き抜くと、その体にありったけの氣を纏い、亡霊に体当たりした。
通常ならばすり抜けてしまう亡霊の身体だが、術を跳ね返し怨霊の侵入を拒む結界のようなものを簡易に張り巡らせることによって、はじき飛ばしたのだった。
飛ばされた怨霊は僅か数メートルのところでようやく態勢を立て直し、再び二人の方へやってこようとしていた。
「泰明さんっ、泰明さんっっ」
ボロボロと大粒の涙があかねの瞳から零れてゆく。
血の気を失って蒼白となった泰明の面。
目蓋はピクリとも動いてくれない。
「やだっ、お願いっ、目を開いて!! 泰明さんっっ!」
真っ赤な肉片と化した右腕に目が行き、あかねはぞくりと身体を震わせる。
肩口からの出血とそれが、清廉な白のイメージを持っていた泰明を忌まわしい凶事を思わせる緋色へと……、塗り変えてゆく。
「あっ………、や…だ……、ダメっ、まだだめぇっっ! 私を置いていっちゃ、だめぇっっっ!!」
悲痛なあかねの声が境内を震わせる。
何よりも、泰明を拘束する愛しい龍神の神子………あかねの声…。
ぴくんっと泰明の目蓋が動き、のろのろと開かれ、そしてその琥珀の瞳にあかねを映すや否や、急に焦点を取り戻す。
「あ…かねっ、う…後っっ」
弱々しく警戒の声を発する泰明に、もうそれ以上の力は残されていない。
驚いて振り向くあかねの瞳に再びサーベルを振りかぶった怨霊の姿が映った。
「きゃっ!」
逃げられようはずもない。
瞬時にあかねは泰明を庇うようにして覆い被さると、彼の身体を抱きしめた。
ぬるぬるとした感触。
鼻をつく、血の匂い。
「ごめんね……」
自然に口を付いた謝罪の言葉。
(…私の力が足りないばかりに………、ごめんね……泰明さん……ごめんね、……みんな)
もとより、泰明独りで逝かせるつもりなどない。
どういう結末が待ちうけようと、そんなことは断じてしない。
やっと人としての感情を持ち始めた泰明を、本当の幸せを知ることもなく独り淋しく逝かせる訳になどいかない…。
あかねは次に来るべく衝撃を待ちうけて再び身を硬くしたが、それはやはり訪れてこなかった。
「うわっ!」
「「天真っ!」」
天真の叫び声と、友雅と頼久の声で、あかねは何が起こったのか悟った。
二人のもとに辿り付いた天真が、身を持って楯となったのだ。
「ら……ん…」
囁くような声を残して、天真は地にくず折れた。
袈裟懸けに切られた身体から、ドクドクと鮮血が溢れだし、地に溜まりを作る。
「…あっ………」
天真の伏す姿を見て、蘭の身体が僅かに揺れ、桜色の唇から微かな声が漏れた。
「あっあっあっ、ああぁっ!」
深層に沈められた記憶の欠片が、急激に浮上しようとして蘭を苦しめる。
蒼天のもとに輝いて、それゆえ眩しすぎて見えない懐かしい記憶。
思い出そうとそれに近寄れば、鋭い痛みとともにおとずれる凄まじいまでの切迫感。
(ダメっ、思い出しちゃっ)
無意識のうちに働く防衛本能が、浮かびかけた記憶の欠片にまたヴェールをかける。
「見ろっ、頼久。怨霊が…」
「怨霊が…消えてゆく…?」
蘭の心が揺さぶられるとともに制御を失った義勇軍の亡霊は、その姿を闇に還していった。
そして辺り一帯を包んでいた異様なまでの瘴気も、僅かに薄らいでゆく。
蘭の生み出していた瘴気が、そっと形をひそめていった。
「あっ、ああっっ! お館様っっ!」
すっと蘭の姿も闇に消えた。
「天真っ、しっかりしろ、天真っっ」
応えはない。
天真の顔色も紙のように白く、頼久が腕をとり確かめた脈拍も消えゆきそうに弱い。
「くっ、このままでは………」
あきらかに天真の出血は泰明のそれよりも多かった。
どろどろとした血溜まりは、人間の血がそれほど多かったのか…と思わせるほどに広がり、生臭い血臭を立ち上らせている。
「神子っ、回復符は? 回復符はお持ちでないかっ?」
友雅がはっと気付いたように顔を上げて叫んだ。
その言葉でようやくそれに思い至ったあかねは、京で具現化された回復の力の宿った符をポケットから取り出す。
(………もう……これ一枚だけ………)
符を握るあかねの手が震える。
(……もしこれを天真くんに使って…、泰明さんが手遅れになったら………?)
二人の命を天秤にかけることなどしたくない。
命の尊さは誰しも同じだ。
あかねはギュッと唇を噛み締めた。
その時、符を握り締めるあかねの手にそっと、泰明の手が重ねられる。
「あっ………」
見つめる琥珀の瞳。
僅かに微笑を形作る口。
あかねの心の惑いを瞬時に理解した泰明は、踏み出しかねている彼女の心をそっと包む。
「…案ずるな………。私は神子をおいて、どこにも行きはしない…」
その言葉に保証はない。
そう言っている傍から、どくりっと肩口から溢れ出す血塊。
でもあかねはゆっくり溜息を付くと、僅かにでも迷った自分を恥じた。
二人とも切羽詰っているとはいえ、あきらかに天真の方が急を要しているではないか。
「これ」
あかねは符を友雅に差し出すと、彼がそれを使うのを見守った。
みるみるうちに出血が止まってゆく。
「止まった……」
頼久の安堵した声が、あかねと泰明にそれで良かったのだと知らせてくれる。
「しかし、血が多く流れ過ぎている…。早く薬師に……いや、医者に見せなければいけないようだ…。頼久、私は彼を屋敷まで連れて行く。“タクシー”とやらを使えばよいのだろう? 神子殿?」
あかねは微笑みながら頷いた。
「住所はわかってるよね? だいたいの場所も。運転手さんに説明すれば、連れてってくれるから。お金は周防さんにお願いすれば払ってくれるから…。
─── 友雅さん、天真くんをお願い……」
「頼久、お前は神子殿と泰明に……」
「いえっ!」
頼久が応と言いかけた言葉を遮り、あかねは強く拒否した。
友雅が何事か探るようにじっとあかねの瞳を見つめる。
その真っ直ぐな視線に微笑みで答え、あかねは頼久に視線を移した。
「友雅さん一人じゃ天真くんを運ぶのは大変だわ。お願い頼久さん、私達はもうここから動けないし、しばらくは怨霊も出ないと思う。一度屋敷に帰って、それからここに誰かをよこして…」
「ですが、神子殿…」
「お願い……」
あかねの瞳に揺るぎ無いものを見つけ、頼久はぐっと手を握り締めた。
泰明とあかねの、何かを悟った様子。
胸によぎる不吉な考え…。
「大丈夫。……心配しないで……頼久さん」
「…………わかりました。神子殿、決して短慮は起こさぬよう……」
「うんわかってるよ」
本当にそうであろうか?
頼久は不安に苛まれつつも、友雅とともに天真を支えて境内を後にした。
「…………あの中で休ませてもらおう? ね、泰明さん、動ける?」
もはや自身の身体が自由にならぬことを知っている泰明は、それでも、苦笑を浮かべながら頷いた。
「…神子は………、いつも…無茶を言う」
飛び立とうとする魂を、その精神力だけで自身の身体に繋ぎとめているのだ。
それ以上の力など、出ようはずもない。
あかねはほとんど引き摺るようにして泰明をなんとか社の中に連れて行くと、その膝に胸に、腕に、しっかりと泰明を抱きしめた。
龍神に否応なく抱かれてしまい、処女を失ってしまったことを知られるのが怖くて泰明を避けていた。でも…。
それでも彼を愛しいと思う心は止まらない。
瞳を見るたび心が震える。
嫌われたらきっと生きていけない……。もうきっと誰も愛せない。
でも嫌われるよりも彼を失うことの方がどれほど辛いか。
世界など、アクラムなど八葉など、何の意味もない。どうなろうと構わない………。
零れ落ちる涙をそのままにあかねは泰明の頬に自分のそれを摺り寄せた。
「泰明さん、好きよ……、愛してる……」
「神子…」
「私にはそんなこと言う資格ないかもしれないけど、だけど……愛してるの…、あなたを失いたくないのっ、あなたがいないと私もう……生きていけない…」
泰明はぽろぽろと宝石のように零れ落ちる涙を拭ってやりたくて手を持ち上げようとするが、そんな僅かな仕草が出来ない。もう手を持ち上げる力も残っていない…。
「神子……私に……おまえの口付けを、くれ……」
「えっ?」
「この世界に来てからずっと、穢れた思いに捕らわれ続けてきた。邪で浅ましい私の欲望に…。でも私はもうそれを、全てを受け入れることに……した。
そう思ったら……、解放されたように頭が、身体が軽くなった。
愛しいという心。……こんな邪な私の心も、すべてその中にあった…」
泰明の声が、徐々に聞き取りにくく、弱々しくなってくる。
「でも…、私そんな資格なんて……」
泰明は知らないから言えるのだ。
あかねが好きな人以外のものに身を任せてしまったことを…。だから純粋にあかねを求めているのだ……。
あかねはそんな一途な泰明を見て、それだけで死んでしまいかねない程の後悔をした。
素直に彼に口付けをあげることが出来る自分であれば……。
「資格? 神子が、他の誰かと交わったことか……?」
泰明の口から飛び出した言葉に、あかねは弾かれたように顔を上げた。
「泰明さん……知って……知ってたの……?」
「…お前の…気が……変化していた………。だが、そのことに気付いたのはつい先程のことだ…」
「なら、なら尚更…私……キスなんて、口付けなんて出来ないよ…」
「問題ない……。私が神子を愛している。それではダメか?
─── それとも私に口付けるのは……いやなのか…?」
おそらくは、それが泰明の最後の願い…。
もうすでに目蓋を持ち上げているだけでも相当の気力を要していた。
紡ぎ出す言葉さえ、消え入りそうになっている。
「あっ……」
あかねは再び泰明を抱きしめる。
彼の重さに痺れてきた手足に全てを受け止めながら、彼の頬に唇を滑らせた。
「いいの……? こんな私でも……いいの?」
「神子……、神子がいい……」
あかねは一度顔を上げると琥珀の双眸を見つめ、そしてゆっくりとその上に顔を伏せていった。
ひっ、ひえ~~っっ(^^;;)
なんか前よりもっと酷い状態に……。や、やばいっす…。ホントにファンの方に殺されそうです(滝汗)
きっと、泰明よりも先に私の方が先にやられますねこれは…(^^;;)
次回、第壱章の終編です。