第壱章其ノ九
「泰明さん……」
「あかね……」
微かな声で、彼女の名を口にする。
額と額を寄せながら、あかねはくすりっと笑いを零した。
「二度目、……だね。名前を呼んでくれたの…」
泰明は細く息を吐き、出来るだけ体力を消耗しないように気をつけながら、優しく微笑む。
「お前が…いとおしい……、あかね…」
三度の呼び掛けに、あかねはひくりっと目許を引き攣らせ、そっと頬に口付けた。
「ずるいよ……、泰明さん。………こんな時に……こんな……と……き……」
涙が溢れそうになる。
あかねにも分かるほど、泰明の命の灯は弱々しかった。
失いたくない。
助けたい…。
己の全てと引き換えにしてでも………。
そう思っているのはあかねだけじゃないという事も、穏やかな泰明の表情を見れば察することが出来た。
龍神の神子と奉り上げられ、八葉や他の人々を守ってきたつもりで、本当はいつも守られてきた。
─── この冷静で、優しい陰陽師に……。
(何も出来ない………。龍神の神子だなんていっても、この人に、私は何も出来ない……)
自分で自分の命を絶つことも出来やしない。
この人が、それを許さない…。
「…あ…かね……」
目蓋がゆっくりと閉じられる。
もっと彼女の顔を見ていたい…。
網膜に焼きついたあかねの顔が、泰明を誘う。
もっともっと………、目を閉じた暗闇が全て彼女で埋まってしまうほどに…。
泰明はなんとか目を開けようと、長い睫毛を震わせた。
「あ……」
あかねはもう涙を堪えていられなかった。
大粒の涙がぼろぼろと頬を伝い、幾つも泰明の頬に落ちる。
「泰明さん………愛してる……」
顔を寄せたあかねが、彼の宝玉に唇を付ける。
そして一度顔を離すと、微かに開かれた泰明の唇に、それを重ねた。
(出来るなら……私の全てをあげる……。私の全てを……。心も…命も………何もかも…)
閉じた目蓋の裏で、意識が揺ら揺らと揺れた。
身体の奥深くから熱い何かが迸り、それが回る意識の中で泰明に触れた唇へと上昇してゆく。
(……お願い……、私を置いて、いかないで──────)
切なる意識下の呼びかけ。
泰明の、薄く冷たい唇に合わせたあかねの唇は熱かった。
手も、足も……。
顔も身体も唇も、全てが熱い。
溢れ出した何かが全身を駆け巡り、それはやがて重ねた唇から奔流となって泰明へと流れ込む。
────── おねが…い……
静かに泰明をその細腕に抱き、力ない身体を必死で支えながら唇を重ねるあかね。
表面は、何も現われていなかった。
しかし、合わせた唇の隙間から、注ぎ込みきれない光の粒子がきらきらと僅かに零れてゆく。
(……み……こ…)
床に垂れていた泰明の手が、その指先がピクリと動く。
溢れ続けるあかねの想いは未だ泰明の唇から注ぎ込まれ、その熱さと激しさにあかね自身が朦朧とした意識に呑み込まれていった。
身体中が熱い。
泰明に触れている指先も唇も、蕩けるように熱い…。
呑み込まれてゆくその己の灼熱の奔流は、あの龍神との媾いの中で感じた、激しいエクスタシーの波のような………。
身体の内側はこれまでにないほど潤っているのに、酷く喉が乾く。
自分の中はこれほどに熱い塊で一杯なのに、満たされていない。
そんな矛盾した感覚があかねを襲い、恐ろしいほどの眩暈の中であかねは誰かの腕が自分を抱きしめるのを感じていた。
「神子……」
泰明は信じられぬ想いであかねの顔と己の身体を交互に見比べていた。
あれほど溢れ出していた肩口の傷の血が止まっている。
傷はまだ、生々しく残ってはいるものの、瘴気に蝕まれた右腕さえ、皮膚が戻ってきていた。
彼の中に溢れる、強くも優しい力。
「これは……、五行の力…?」
天と地と、世界を構成する正しき五つの要素。
その神気を帯びた力の片鱗は、泰明という器の中に波々と注がれて、溢れんばかりに彼を満たしている。
(神子が……、生み出したのか…)
光の痕跡がまだ、そこかしこに零れていた。
その光もまた癒しの力を持つらしく、零れ落ちて触れた床板がみるみる生気を取り戻し………。そして、死に絶え、生前の木の記憶を持つだけの板に新たな息吹の芽を生えさせていた。
『お前達の戦いは苦しいものになろう……』
この世界に訪れた時に天狗が吐いた言葉。
五行がほとんどない…という世界の中で、自然や神域に宿る五行の力、或いは神子が龍脈から導く五行の力のないままにこの世ならざるもの達と闘ってきた八葉。
その源がないという危機的な状況を、今日ほど強く認識した日はなかったであろう。
そして天狗の言葉のもう一つの意味………。
あの時、天狗の言葉にショックを受け意識を失ったあかね…。
(……こう言うことか…………)
おそらくあかねは無尽蔵に五行を生み出すであろう。
この世界を守る、大切な人達を守るという慈愛の心で生み出された五行は天を地を癒し、八葉らに活力を与え………。
そこまで考えて泰明は苦しげに胸を押さえ、朦朧としているあかねの胸に顔を埋めた。
心の臓が握りつぶされているようだった。
激しい己の中の想い…。
(いやだ…、いやだッ、いやだッッ!)
あかねが自分以外の誰かと交わったということ。
彼女の暖かな口付けを知った今、ようやく泰明は実感した。
見えないその誰かに、煮えたぎるような熱い怒りが湧き上がる。
憎悪……とも呼べるその感情。
(誰にも渡したくない、…渡さない)
しかし、その自分の想いがこれからの闘いを妨げるてしまうこともまた、泰明は悟っていた。
「…あかね」
抱えた矛盾。
彼女の幸福を願うならば、この世界を救わなくてはならぬ。
この世界を救うためには、彼女を差し出さねばならぬ。
全ては泰明一人の中で抱え込まねばならぬこと。
そして、あかねが抱えていかねばならぬこと…。
「おまえはやはり………“龍神の神子”なのだな……」
泰明一人の“あかね”ではない。
鬼との闘いが続いている以上、あかねは“龍神の神子”なのだ。
「だがどんなことがあっても………、あかね、おまえを愛しいと……想う」
顔を上げた泰明の目に飛び込んできたあかねの表情。
擬似的なエクスタシーの中、恍惚とした表情を浮かべている。
五行を生み出し、それを与える…ということは、一種の房中術なのであろう。
あかねの唇に、今度は泰明から口付けを贈ると、ようやくあかねの視線が焦点を結んだ。
「……あっ、………わたし……?」
揺れる視界に泰明の顔を捉えた途端、あかねの顔が歪んだ。
「泰…明……さん…?」
「大事無いか?」
あかねは目の前の光景が信じられなかった。
………最悪の状況を覚悟していたのに、訪れたのは歓喜…。
(ありがとう………神様……、龍神様……)
次から涙が溢れ、声にならない。
泰明は、ただ涙するあかねを抱きしめ、耳元に囁いた。
「おまえが五行を生み出した。それが私を癒し……、力を与えた。
私は二年前お師匠様に創られたが、今度はおまえに創られたのだ。
─── 感謝している……。
おまえの為に生きることを……、その機会を与えてくれたおまえに…」
(私が……?)
あの時感じた、こみ上げる熱い塊。
あれが自分の中で生まれた五行の力だというのか…。
そして口移しで与えたその力。
瞬時に真っ赤になったあかねは、がばっと泰明の抱擁を両手で押し返した。
「神子?」
「も、ももしかして、…その……、五行を与える……って、あ、あ、あーやって……あげるの?」
あまりのあかねの慌て様に一瞬泰明は驚いて目見開いたが、すぐさま柔らかな微笑を浮かべた。そして、その微笑は俯く彼女の顔を見ているうちに、徐々に強張ってゆく。
再び、泰明はあかねの身体を抱き寄せた。
「京では………。
五行を生み出す必要がなかったので、特に気にかけたことはなかったが、おまえが八葉に五行を与えるということは…………一種の房中術のようだ。
────── 口付けや…交わりで…気を与える」
そう。
おそらくあかねは五行を与えるだけだろう。
交わる相手の気を操り、減退させたり、己に取りこむことは出来ないと、泰明は確信していた。
地の癒しと天の慈愛…。
それは溢れ出るものであって、有限のものではないのだから。
「その力は………龍神から授かった?」
一段と低い囁きがあかねの耳朶を掠めていった。
「!?」
「おまえが交わったのは……龍神…………だな…」
あかねの身体が瞬時に硬直する。
それが答えだと、泰明は唇を噛んだ。
「あ、あ……私……」
あかねの言葉を遮るように、泰明は更に力を込めて彼女の身体を抱きしめる。
きつい抱擁はそのまま、泰明の苦しみの現われのような気がして、あかねはそれを甘んじて受けた。
そのまま泰明は、あかねの頬に顔を摩り付けて唇を求めた。
貪り、全てを奪い尽くすような激しい口付け。
あかねの中でまた熱い塊がこみ上げてくるような感覚がし、そして。
泰明の手が滑らかな肌をなぞるように悦びを誘うと、先ほどとは比べ物にならないぐらいの光の粒子が、重ねられた唇の隙間からポロポロと零れていった。
「んっ………」
鼻から甘い声を漏らしながら、あかねの顔は涙で濡れていた。
伝わる泰明の想い…。
あかねも理解していた。
身体の奥底から湧き出でているこの力を八葉に与えるということは、キスや、…………を、泰明以外の人とするということ。
そんなこと、もう二度としたくはないのに、せざるを得ない状況…。
泰明は、その激しい想いの赴くままに、あかねの身体に唇を這わせ、そして交わった。
決して五行を得る為の交わりではないが、思わざるとに係わらず、口付けだけでは癒しきれなかった肩口の鈍痛や右手の皮膚が元通りに癒されていった。
一度果て、そして汗も引かぬうちにまた求める。
二人の間に交わされた言葉は……。
「愛してる…。どんなことがあっても…おまえだけを…」
「………私も……愛してる…」
それだけだった。
しばらくして…。
一度館に引き返した頼久が永泉と共に再びそこを訪れた時、確かにあったはずの社は原形を留めないほどに、生い茂った枝葉に包まれていた。
先ほどに比べてその一帯だけは清々しい程の神気に溢れ、二人は生き返ったかのように思わず深く息を吸いこんだ。
その枝葉を押し分けるようにして、元は扉だった物を開いて出てきた泰明とあかねは、驚いて立ち尽くす二人を前に手を繋いだ。
「闘いが終わるまで、おまえは“龍神の神子”だ…」
「…………うん」
「………終わるまでは……」
無表情のままではあったが、泰明らしくなく同じ事を再度呟くと、二人は手を繋いだまま立ち尽くす二人の方へと歩いていった。
ようやく、第壱章が終わりました。
どうも浮気な神子様方にはおいしい展開に、そして泰明さん命っ!の神子様方には無茶苦茶な展開になってしまいました(^^;;)
やっぱり私の願望ですかね~(爆死) あの人も、この人も……って……。
五行を生み出す術を得たあかねちゃん。今後は他の八葉の方々にもスポットが当たります。どうぞお楽しみに(^^)