第壱章其ノ七
闇が陰の氣を運ぶ。
息も荒く、泰明は立っていることが叶わずに、地面へがくりと膝をついた。
「くっ…」
己の迂闊さを悔やんでならない。
ままならない感情に振りまわされ、力の加減も限界も考えずに使い果たしてしまったこと…。
相変わらず、身の内に五行の力は流れ込んでこなかった。
これだけ多くの五行の力を漂わせていても、この世界の氣は紛うことない穢れた氣だ。
陰の妖氣を操る怪しげな術者ならともかく、泰明は正当な陰陽、密教を継承する者である。この力のように己を負の方向へ導く五行を我が力と出来ようはずもない。
しかし、目の前に無表情に佇む少女、─── ランは、この穢れた五行を容易く操る。しかも京にいた時よりも遥かに力を得、───それはきっとこの世界の穢れた氣が多分に流れ込んでいるせいであろう─── 疲れきった泰明をさも簡単に翻弄した。
ランと遭遇した池のほとりから、彼女の攻撃を避けながら、泰明は逃げるしかなかったのである。
林を抜け、少しだけ開けたどこかの境内らしき所に出る。
そこは神社らしく鳥居があり、奥まった場所に社や社務所などの建物が見えた。
“神域”…と思ったのもつかの間、そこにもやはり正しき五行はほとんど感じられなかった。しかしそれでもありったけの集中力をかき集めてそれらを獲り入れると、程なく追ってきたランの前に立ち塞がった。その心に一つの覚悟を決めて…。
(例え我が身を違えようと、神子に指一本触れさせぬっ)
印を組むでもなく、立ち尽くす泰明を前にしてランは暫し考えこむようにして見ていたが、やがて躊躇無く指を組み合わせ…、
「どうした、地の玄武。反撃しないのであれば、こちらからゆく」
すうっとその片手を上げる。
闇色をした氣がその手を中心に渦を巻き、それは瘴気となって泰明に襲いかかってきたのだ。
「っ!」
その瘴気の直撃は今の泰明にとって致命傷に至る程の兇器を孕んでいた。
「はっっ!」
気合を入れて、ぎりぎりのところでその触手をかわす。
そしてすぐさま軽く跳躍し、着地したその場所から間を置かずに後へ飛びのく。
─── ズザッッ ───
重々しく地を切り裂く音がして、たった今泰明が退いた場所に黒々とした亀裂が走っていた。
「……怨霊か…」
さも何事もなかったかのようにそう呟くと、泰明は素早く左右に目を走らせた。
一体、二体………全部で五体の怨霊のおぼろげな姿が闇に浮かびあがる。
「お前が呼んだのか? ここ数日の、この地での事件はやはり鬼が関係していたのだな」
ランは否定するでもなく肯定するでもなく、ただ黙って泰明を見ていた。
揺ら揺らと彼女の手の平で揺れる瘴気が行き先を求めて渦を巻く。
「穢れた氣を操り、地脈を狂わしめる。怨霊達も正しき金の氣であれば、このように浅ましい姿を晒さずにすんだものを…」
自分で己の放った言葉が信じられなかった。
人としての感情などなかったはずだ。
以前の彼であれば怨霊に同情する余地などあろうはずはない。しかし今は眠りを妨げられ、自らの誇りを地に落とさねばならなかった霊が、哀れでならない。
泰明はすっと胸の前で印を組むと目を閉じる。
そしてすぐさま見開かれた目にはもはや哀れみの色はなかった。
刺すように、冷たく怨霊に注がれた視線は、以前の冷徹な陰陽師…。
「─── 木剋土、土剋水、水剋火、火剋金、金剋木………
天と地と……万物を織り成す五行相剋の理において…、火を以って金を滅す…」
男性にしては細く綺麗な指先が虚空に放たれ、金の軌跡を描きながら鮮やかに五芒星を作り出す。
合わせてランの手の平の瘴気が膨れ上がり、彼女は高々とその手を掲げた。
「…急急如律令」
低く響く泰明の声が静かな境内に響き渡った途端、怨霊は凄まじいまでの業火に包まれた。
声にならない絶叫を上げる。
と、同時にランの放った瘴気が狙い違わずに泰明を捕らえ、彼は予測していたものの、上手くそれを避けることが叶わずに瘴気の触手に絡みつかれた。
「くはっっ、」
左手に激痛を感じ、それは徐々に腕を絡みながら這い上って首筋へ。
ギリギリと棘の縄で締めつけられて、瞬間、呼吸が止まる。
歯を食いしばりながら右手で瘴気の棘を掴み、その手にありったけの気を集めて解き放つ。
ピシュッ! ───
焼け焦げた臭気と共に放たれた閃光で目がくらみ、張り詰められたランと泰明を繋ぐ瘴気の糸がぷつりと切れた。
「!!」
はずみでランの身体がぐらりと揺れる。
その瞬間を泰明は逃さず、よろめきながらも組んだ印から気の塊を発した。
「はっっ!」
生み出された光球は真っ直ぐランに向かう。
だがしかし、彼女はそれを避けようともせずに相変わらずの無表情で泰明を見つめたままだった。
「…!?」
“チッ”と僅かな音がして、泰明の放った気はランの目の前で消滅した。
まだ髪の毛一筋たりとて触れてはいなかった。
それはランから一メートルほども離れた空間で、ものの見事に掻き消えたのだ。
(…結界かっ…)
それだけではない。
いつもの彼の力であればそんな結界など無きに等しい。
しかし、身の内の力を使い果たし、ほとんど気力だけで闘い続けている泰明の気弾など、幼子が放つものよりも威力がないのであろう。力を増したランの結界を破ることなど叶いはしない。
(神子…………っっ)
泰明は白くなるほど唇を噛み締めた。
今ここで鬼の少女を倒しておかなければ、敗北は目に見えている。
正しき五行を捕り込むことも出来ず、果たして我々八葉にいかほどの道が残されていることか。しかも敵は確実に力を増しているのだ。
泰明は焦った。
しかしその焦りは表情に出ることはなかったが、確実に失われてゆく体力だけが知らず彼の表情に苦悶を作り出す。
(まだ……だ…)
だがもう術を操るほどの体力も力も残されていない。
どれほど気力を振り絞ってもあの結界を破ることすら叶わないであろう。
後残された道は………。
泰明は素早く周りに目をやると、見事に張った老松の枝の一本を手折る。
「神子……」
知らずに唇から漏れる愛しい人の名前。
それを幾度も繰り返しながら、泰明は走りだし、佇むランの懐近くに飛びこんだ。
「!?」
突然のことにランが大きく目を見開く。
術に対してのみ張られていた結界は肉体を何の障害もなく通過させ、ひるむ彼女の懐に泰明は入りこむ。そして持っていた太目の枝を彼女の心の臓目掛けて突き立てたのだった。
「きゃっ…」
微かに上がる悲鳴。
だが…。
(………?)
確かに手応えがあったように思う。
しかし、枝の先にランの姿はなく、あるのはただ闇よりもどす黒い虚空ばかり。
その虚空に松の枝が突き刺さり、ランはそこから左後方に数メートルほど離れた所に無傷で立っていた。
「くっっ」
とっさにかわしたか、それとも謀られたか…。
どちらにしてもこの様な機会はもう訪れはしないだろう。
そしてそれは泰明が次の策を練る、僅かな時間に確定された。
「うわぁっっっ!!」
突然の激痛が泰明を襲う。
声を抑えることも出来ぬほどに激しいその痛みは、虚空に刺さった松の枝を握る右手からだ。
指先から僅かずつ肉をこそげ取ってゆくような……、拷問のような激痛。
昏い虚空がぐいっと伸びて泰明の手を食らってゆく。
纏わりつく触手が蠢く度に白い肌にケロイドのような蚯蚓腫れを作り出して、泰明は絶え切れずにまた声を上げた。
(神子……っ、すまない。最後にもう一度だけ、おまえの顔が………声が……聞きたい…)
どんなに腕を引こうとも触手から逃れる術はないように思われた。
だがそんな時でも泰明は決してあきらめた訳ではない。
まだ最後の手段が残っている……。
しかしそれを使えば泰明は人としての形を留めていられないであろう。それにそれを使ってもランを確実に倒せる自信はなかった。
─── しかし……。
腕を捉えられたまま、ガクリッと膝を着くと、まるで放心したかのように目を見開いたまま宙を見つめる。
痛々しく張れあがった蚯蚓腫れから血が滲み出し、それはダラダラと腕を伝って彼のシャツを紅く染め上げていった。
(……私の血は……………まるで人の子のように……赤いのだな…)
白濁してゆく意識の中でそんなことをぼんやりと思う。
そして唇からは、己の生命の源の灯と引き換えの呪が、紡ぎ出されようとしていた。
「ぐっっ……泰山府……君よ…」
しかしその呪は痛みの余り途切れ途切れで、ほとんど聞き取れない。
「ひ、がしに……日神…、西に……げっ……し…ん…、空に……うっっ!」
触手の先端が泰明の首に巻き付く、空いた手でそれを取り払おうと握り締めて引き離せば、離れてゆく瞬間に肩口がすっぱりと裂けた。その血は更に彼の服と、そして地までをも濡らしていく。
(神子…………み…こ……)
「泰明さんっ」
呪の途中でありながらも薄れてしまいそうになる意識の中で、泰明は愛しい者の声の幻聴を聞く。
(幻でもよい……神子……お前の声が……)
「泰明さんっっ! 泰明さんっっ!!」
(神子…?)
幻聴ではない。
痛みのあまり感覚の麻痺してしまったような五感の全てを使って、その声のする方向に集中する。
目が霞む…。
霞む視界に揺れる人影。
走り寄るその影が次第にはっきりと輪郭をなして…………。
「きゃああぁぁぁぁっっ!」
切り裂くようなあかねの悲鳴に、泰明は瞬時にはっきりと意識を取り戻した。
「神子っっ!!」
泰明の、そして他の数名の声が静かであったはずの境内にゆっくりと染み渡っていった。
ようやく泰明さんが登場っ(^^;;)
でも出てくるなり酷いことになってたり……(滝汗)
お願いだから、不幸のメールとか、かみそりメール(??)は送らないで(;;)