第壱章其ノ三
「いないね……」
確かに数分ほど前に出たはずの泰明の姿は、もう目の届く範囲には見付からなかった。
あかね達の住む古びた洋館はもと華族のお屋敷だった。築五、六十年ぐらいは経っているのだろうが、まだまだ堅強な造りは永の年月にも衰えを見せていない。それどころか歴史が齎す深み…とでも言うのだろうか。風雨に磨かれて艶を増した外観は、脂の乗った壮年の男性とも、また雅やかな老貴婦人とも感じさせる気品を湛えている。
微細な彫刻の施された柱が支える玄関の雨避けから、前庭のカーループを抜け、鬱蒼とした雑木林に挟まれた砂利道を100メートルほど行くと、やっとのことでブロンズ製の門扉に辿り付く。そして又そこからさらに林の中を抜けて500メートルほど行かなければ公道に出ることは出来ない。
友雅とあかねは涼しい風の抜ける私道をゆっくりと歩きながら駅に向かった。
もよりの駅までは2.3キロほども距離がある。
それほどの分かれ道があるわけではないのに、一向に泰明の姿は見付からなかった。
クリーム色の半袖のシャツにジーンズと、服装こそ一般的だが、彼の萌黄色を帯びた黒髪とあの端麗な容姿は目立つことこの上ないはずである。数分前に出た事を考えれば、友雅とあかねの目の届く範囲にいると思っていたのであるが…。
「ま、行く先はわかってるんだ。焦ることはないよ…」
川へと向かう道を歩きながら、友雅はあかねに微笑みかけた。
明らかに、あかねのがっかりした様子が見てとれたからだ。
涼風を受けながら長い髪を自然に任せて垂らす、友雅。
陽射しを遮るもののないアスファルトの道を歩いていると、ものの数分でうっすらと汗ばむくらいの陽気であるというのに、彼は息一つ乱していなかった。ともすれば鬱陶しくなりがちな長い髪も、碧みがちの色素のせいで何故か涼しげにさえ見える。
「はい」
二人の行く手には川が流れ、その上に架かる橋はS県と首都を結ぶ。
一番もよりの駅はと言えば、首都に入ってまもなくのところにあった。首都を走る主要線のうちのひとつが、その駅を起点としてK県の端まで走っている。泰明や友雅、あかねらが目指すU駅は、その中枢とも言うべき駅で、東北から上越、信越、中部、関西方面へと、あらゆる線の始発駅となっていて、地方から首都へ来た時は、大抵の人がこの駅を利用する……そんな地方人の坩堝のような場所だった。
他愛のない会話を交わし、時折友雅の疑問に答えながら二人はA駅へと辿り付く。
あかねはつま先だって必死で伸びあがりながら辺りを探してみたが、やはりここにも泰明の姿は見付からなかった。
(泰明さん…、大丈夫かな…)
あかねの心を読み取ったのであろう、友雅がそっと彼女の肩を抱き寄せて囁いた。
「安心しなさい。彼のことだ、いざとなったら式神か何がしかを連絡によこすだろう」
「そ、そうですよね」
本当にそうだろうか?
ここ最近の泰明は確かにおかしかったような気がする。
普段からあまり愛想がないだけに、どこがどうおかしいとはっきりとは言えないのだが……。
「ほら、神子殿、これに乗るのだろう?」
ぼんやりと考えこんでいたあかねの耳に友雅の声が飛び込む。
「えっ? あっ、はいっ」
ほとんど乗車客のいない車輌に乗り込むと、あかねは再びぼんやりと考え込んだ。
その横顔を、読み取れない不思議な光を湛えた瞳を細めて、友雅は見つめていた。
「もう……どこにいっちゃったんだろう…」
U駅に着き、問題の公園付近をうろついていた二人は、少し休憩する事にした。
駅や公園の周辺を二、三度見て回っただけですでに三時間が経過している。
太陽はすでに南天を過ぎ、更に厳しい陽射しへと変わりつつあった。
二人は美術館のほど近くにある喫茶店へ入ることにした。
昼食時はとっくに過ぎているので、店内に人はほとんどいない。
メニューを持ってきたウェイトレスが友雅を見つめたままぼうっとしているのを見て、あかねは苦笑した。友雅はといえば、一見意味ありげに思える艶やかな流し目をちらりと彼女にくれ、自分に見惚れてると知るや極上の微笑を添える。見慣れたあかねですら時折、その色香にどきっとときめくのだ。免疫のない者が我を忘れても不思議ではない。
今日は友雅がどれだけ人目を惹くか、改めて認識させられた気分のあかねだった。
京でも目立つこと宮中一といっても過言ではなかったが、現代にあって、至ってシンプルな姿をしていてさえも、その立ち居振舞いには華がある。それもとびきり艶やかで匂い立つような華が…。
「どうしたんだい? 神子殿。…お腹がすいたのだろう?」
ぽぉっと友雅の顔に見惚れていたあかねは、からかうような視線がじっと見返しているのに気付いて一気に頬を赤らめた。
「えっ、えっとぉ……、ら、ランチでいいですか?」
「君が奨めるものならなんでも…」
「っ! ………っと、じゃ、じゃあ、ランチふたつ下さい。あ、後アイスコーヒーも」
ちらちらと友雅を盗み見ながらウェイトレスが奥へと姿を消した。その途端、奥の方で湧き上がる黄色い喚声…。
今ごろ店裏では友雅の話題で持ちきりだろう。
その様子がわかるだけに、あかねは引きつった笑いを浮かべた。
そんなあかねを、謎めいた微笑を湛えるだけで何も言わずに友雅は見つめ続けている。
何かを見極めようとしているような………そんな視線。
あかねは居心地が悪くなり、頬を染めたまま俯いて身体の位置を何度も変えなければならなかった。
(今日の友雅さん、……なんか……変だ)
「変」と言う表現もぴったりとはこないが、何と言うか……いつもに増して彼に惹き付けられるような……そんな感じがする。
泰明あたりならば「気が増大している」とでも言うのであろうが。
それに今日、というよりも正確にはU駅に着いた頃から、並んで歩くあかねを圧倒するほどの艶やかな雰囲気を発しているのだ。
「どうしたんだい? さっきからそわそわしているね」
尋ねながらもその理由を知っているのだろう、友雅は余裕を見せて微笑みながらあかねの頬にそっと手をのばし、滑らかな肌に指を滑らせた。
ぴくんっとあかねの身体が震える。
そのまま指を顎に添えると、くいっと仰向かせ己の正面に据えた。
「やっと私のことだけ、考えてくれたね」
甘く揺れる視線で視線を絡め取られ、蒼みがかったその瞳に吸いこまれてゆきそうになって、あかねは慌てて顎を捉えた指から逃れようと顔を逸らせた。
「も、もうっ、友雅さんっ、からかわないでください」
周囲の視線が自分達に集まっているのがわかる。
先ほどオーダーをとりに来たウェイトレスがあからさまな視線であかねを見、そして注文したものをテーブルに並べると、奥へと去ってゆく。
「私はからかったつもりはないんだけどね……。さ、頂くとしようか」
公衆の面前であろうとなかろうと、まるで気にしていないらしい。
あかねは再び俯いたまま、折角の昼食の味もわからずじまいであった。
「せっかく君と二人きりで出掛けられたのに、君の頭の中は他の男のことで一杯だなんて……淋しいよ。せめて今からの少しの時間は、私のことだけを考えてくれないか?」
店を出る時にそう言った友雅に、あかねは頷くだけで精一杯だった。
さやさやと梢が鳴る。
水面を渡る風は水の齎す癒しを含んで涼風へと変わり、佇む泰明の頬を撫でていった。
「………」
泰明は無言で傍らにあるブナの木の根本に目をくれると、いつもと変わらぬ表情で素早く九字を切る。
────── ジュィッっっ!
何かが焼け焦げるような音がしたかと思うと、そのブナの木の根本に居たらしい小怪魔が消滅した。
先ほどからどれぐらいの数を破邪してきただろうか。
一体ずつにすればさほどの脅威はないものの、さすがにこれほどの数となるとこの地と人間に悪影響を及ぼす。
泰明は根気良く一体ずつ消滅させて歩いていた。
とは言っても呪文も、それどころか印すら必要としないほどの破邪なのだが。
五行を内に取り込めぬ今、身の内に宿る力を駆使しての退魔である。おのずと限界というものがあるはずだが、あれほどの退魔の術を施してもその無表情な顔から疲れている様子は見つけられなかった。封印のとれた泰明自身の力がどれほどのものを秘めているのか、彼自身すらわかっていない。
……しかしやはり人形をとっている限界か、それとも何がしかの影響があるのだろうか、当然のように“疲労”というものは泰明の上にも訪れ始めていた。
軽く痺れる手足を見つめ、泰明は眉をひそめた。
「そろそろ……限界なのか?」
ゆったりと広がって行く倦怠感。
疲労を徐々に認知したようで、泰明はそばにあったベンチに腰をかけた。
一体自分はどうしてしまったのだろう……。
ぼんやりと彼は考えた。
五行をあてに出来ない今、身の内の力をこれほど軽々しく使うなどもっての他。……のはず。
何の案内もなく、初めての町に一人で出てくるなど、不用意この上ない。
そんなことは分かっている。分かっているのだが………。
この世界に来てからというもの、心に引っかかっている“何か”。
……神子が変わった。
どこがどう変わったと、はっきり言えるものではないのだが。
自分に向ける笑顔はいつもと同じ眩しいもので。
その言葉も自分を気遣う優しいもので……。
しかし………どこかが違う。
あえて言うのならば、彼女の仕草、動作の一つ一つに泰明の胸は激しく動揺してしまうのだ。
以前ならば、“好ましい”とか“愛おしい”とか、そのような感情の中で納まっていたものが、まるであかねをその腕に抱しめて間近く瞳を覗きこんでいるような……。
そんな激しい感情を齎すものへと、あかねが“変わって”いた。
(……いや、変わっているのは自分なのか?)
今朝、湯上りで肌を薄っすらと桃色に染め、濡れた髪を頬に張り付かせた姿を見て、自分はいったい何を思った?
(抱しめたかった。…否、それ以上のことを…。あの肌に触れ、唇を寄せて…そして…)
その思いはあかねを“愛しい”と思った時からあった感情だ。今更深く考えるものではないはずなのだが、今、あかねが傍にいない今でさえ、こんなに激しく、狂おしく、彼の中に渦巻いている。彼女が傍にいる時など、精神が壊れてしまいそうだ。
そして友雅と仲良く話す彼女を見ていたら湧きあがってきた、強暴な、そして破壊的とも言える名も知らぬ“想い”。
それらが泰明を苛んでいる。
いつもなら正常に下せる判断が、己の感情のせいで狂ってしまう。
(神子……。私だけでなく、他の者にもあのような笑顔を見せるのだな…)
ふっと、湧きあがった“想い”。
(バカな。私は何を考えているのだ? みな苦楽を共にしてきた八葉ではないか…。神子が微笑みかけるのも当然のことだ)
そう。そうなのだ。
あかねが自分以外の者に微笑みかけるのは当たり前の事。
そう必死で自分の考えを打ち消そうとしたが、一度脳裏に浮かんだことはもはや取り消せるはずもなく…。泰明は溜息をついて、もう一つの考えに没頭することにした。
(こちらに来る時に感じた、神子の気の変化…。よもやそれが何らかの影響を及ぼしているのだろうか…)
自分の考えが核心に近い場所にいるとも気付かず、泰明は答えてくれる者のない問い掛けを、己の心に続けていた。
「……?」
どれほどの時間が過ぎていたのだろうか。
ふと気がつくと辺りは陽射しが途絶え、宵闇に向かう黄昏た空気が流れはじめている。
昼間は僅かにもあった人の気配が、さすがにぱったりと途絶え、まだ明るさは十二分に残っていてさえ、どこかうら淋しい雰囲気が池の周辺に漂っていた。
泰明は無言でずっと暖めていたベンチから立ちあがる。
涼を含んだ風が束ねた萌黄の髪を撫でてゆき、木立に消えた。
水面は不気味なほど静まり返り、遠く聞こえる街の喧騒がまるで幻のように儚く聞こえてくる。
邪気 ──────
そうとしか呼べない禍々しい気が、───満ちる。
昼間の小怪魔達の妖気すら、赤子の発するものであるかのような…。それほどに強大な気だ。
泰明は軽く舌打ちすると、その源を辿るべく己の気の触手を張り巡らせ始める。
「────── 地の玄武。
何故、お前がここにいる?」
背後から、木立の創り出す闇を溶かして一人の少女が現れた。
その少女は足音すら立てずに、しかも無防備のまま、後ろ向きに佇む泰明に近付くと、ほんの数メートルの所で立ち止まった。
「鬼か………。
天真の妹だな…。確か名はランといったか……」
そう呟きながら泰明はゆっくりと振り向いた。
目の前には少女───ランが、無表情で佇んでいたのだった。
あかねを始め八葉全員があまりの五行の少なさに影響を…。
そんな中で全開の友雅さん。なぜ……(^^;;)
それはまだ秘密です(爆)