第参章其ノ参
白、白、しろ……。
目に飛び込んでくるのは、辺り一面目が痛くなるほどの白一色。
目を閉じていてもまぶたの裏が白く見え、まるで催眠術をかけられているように思考が鈍くなっている。
(ここはどこなんだろう……? 僕は…どうしてこんなところに? ……)
ずっと繰り返し自問している内容を、飽きもせずにまた問い掛ける。
うっすらと目を開ければ、真っ白な空間に相棒であるイノリの姿が見えた。
それでまた一安心し、浅く長い眠りに落ちていく…。
よく考えれば、真っ白な空間に漂うように浮かんでいる事をおかしいと思うに違いないのだが、そう考えることすらおっくうで、そのまま柔らかな眠りに全てを委ねてしまう。
(眠いよ……。でも、寝ちゃだめなんだ。…………どうして……? なぜ寝ちゃだめだったんだろう?)
もうずっと長いこと同じことを考えているような気がする。
けれどその答えは全然見つからずに、同じ思考をぐるぐると回りつづけているのだ。
もういつからそこにそうしているのかも知らない。ただ時折目を開けて映るイノリの姿に微かな安心感を覚えるだけだった。
そこは本当に何もない世界だった。
雲の中に飛び込んだような真っ白な世界…。
時折ゆらゆらと空間が揺れ、白一色だった世界に僅かに影が生じる。
揺れた空間の歪みが虹色に光り、そしてそれは少しの間に消えてしまう。
現し代でもなく、また、別の世界でもない。
あえて言うならばこの世とあの世の境目、今の次元と別の次元との境目……。そう呼ぶ以外にない場所。
確かに詩紋とイノリの身体は現代にあるはずなのに、現世の何事も二人に影響することはなく、また、他の次元の理も、彼らに影響することはなかったのだ。
ずっとこのまま、何も変わらず白い世界が広がるばかり……。
と、思えた白い空間が僅かに灰色を帯びて広がり、やがてその中心に亀裂が入って彼らの白い世界の沈黙が破れた。
「ふふ…、私の可愛いぼうや達はいい子にしてるかねぇ?」
裂けた空間の向こうは真っ暗だ。
遠く、砂金のような光が見えるのは果たして星か。
ギリギリのところまでしか隠してない黒いレザーのタイトスカートと、お揃いのチュニックブラウス。
豊かな胸元を惜しげも無く披露しながら現れたのは、すっかり現代に馴染んだシリンであった。
彼女が閉ざされた白い空間に入ってきても、詩紋もイノリも驚きすらしない。不思議だ……とも思わない。ただ、そのまま創始の眠りを与えられたかのようにゆったりと漂いながら身体を丸めているだけだ。
それを見てシリンは満足そうに薄く笑うと、イノリのそばにつぅと近寄り、無抵抗なその顎を真っ赤な爪の先で持ち上げた。
「ほーんとに、かわいいねぇ」
もう一方の手で、膝をかかえるようにして身体を丸めているイノリの脇腹あたりを撫で下ろし、何の抵抗もしないのをみて目を細めると、さらに彼女の指は遠慮なく両足を割って股間に潜り込み、まだなんの兆候も示していないそれを手のひらでぐっとこすり上げた。
「───。……」
イノリが微かに身じろぎする。
微かに反応があったのに気をよくしたシリンは、更なる快感を求めるかのようにゆっくりとほどかれてゆくイノリの身体に薄ら笑いを浮かべ、やわやわとそれを揉みしだく。
「ぅ……」
無意識の世界に与えられた快感はそのまますんなりと受け入れられ、それを与えているものが何者かも知らず、イノリは正直に反応を返した。
「くくくっ…。
気持ちいいかい? ─── 今その快楽を与えているのが、お前のもっとも憎む“鬼”だって知ったら………どんな顔するんだろうねぇ」
小気味良さげにシリンが嘲笑う。
「ねぇ? 地の朱雀もそう思うだろ?」
イノリへの手を休めぬまま詩紋を振り返りそう呟くと、ケラケラと甲高い声を上げながらまた己の仕掛けた行為へと没頭していった。
その状況を把握していくそばから白く塗られていきながら、
“寝ちゃだめだ……”
詩紋の意識は必死でその言葉を繰り返していた。
藤姫と永泉の必死の遠見の結果、神気がまったく感じられない場所が幾つか見つかった。
永泉が力を発揮できないため、また、淀んだ穢れた気のせいで確信できない場所もありはしたが、何の手がかりもつかめない今、藁をも掴む思いでその場所を捜索するしかない。
地図を見ながら何か一人ぶつぶつと呟いていた永泉は、その後あかねが止めるのもきかず己の精魂を削ってまで気を探り、幾つか有力と思える場所を指し示すとそのまま昏倒してしまった。
『イノリと…詩紋を………』
そう呟いて床にくずおれた永泉は、友雅が寝室へと運んでいった。
捜索に行ったのは頼久と天真と鷹通と恵梨の四人。
決して無理をしないで…とのあかねの言葉に頷き、勇んで有力候補地へ向かった。
「友雅さん、私……どうすればいい?」
屋敷の中はしんと静まり返っている。
泰明と永泉、二人が床につき、薬のせいもあって一日ほぼ眠ったままだ。
藤姫はずっと部屋に閉じこもり、引き続きイノリと詩紋の行方を突き止めようとがんばっていた。
いつも八葉の皆と回りの人に頼りきりだ…。
そのことを一番苦痛に思っているのは、当の本人であるあかねだった。
友雅もそれはわかる。わかるが……。
さすがに友雅の口からさえ『八葉に五行の力を与えればいい』とは言えなかった。
あかねにも出来ることがあると、力づけることも出来ないのだ。
泰明が再び心のかけらを失い、あかねと育んだ日々を忘れてしまった今となっては、彼女の心の支えはないに等しい。京にいた頃のように、ただ人々の為に世界の崩壊を阻止すること……。それがあかねに課せられた使命で、またあかねが望むこと。
だからといって好きな男以外のものにその身体を任せるなどという無粋以外のなにものでもないことを、友雅の口から勧めることなどできない。遠回しにほめのかすことすら憚られる。けれどこのままでは世界の崩壊を止めるどころか、怨霊を封印するのとて難しい。
人生経験は 同年代の者より多く積んできたつもりだが、目の前の少女を元気付ける言葉がひとつもみつからず、友雅は歯痒さの余りぎゅっと手を握り締めた。もちろん、あかねに気づかれないように…。
「……神子殿、こちらに座りなさい」
二人のいる居間は、レースの揺れる大きな出窓からの柔らかな風で、ひんやりとしている。周りを木々に囲まれているせいか、夏でもほとんどクーラーがいらない。
友雅は4人は楽に座れるソファに座って、あかねを誘った。
「五行の力を与える方法は三つあると言ったね」
「…はい」
大人しく友雅の隣に腰掛けたあかねは、真っ直ぐに友雅の顔をみることが出来ずに俯いたまま答えた。
「身体を重ねること、口付けること、……あとひとつは?」
「……宝玉に……口付けるの…」
か細い声であかねが答える。
(宝玉……か…)
一見一番あかねが行い易い方法に思えるが、彼女の声の響きはためらいを含んでいた。何かがあると、考えた方がよさそうだ。
「…で、この間は頼久の宝玉に口付け彼を回復させた……と、そういうことかな?」
あかねは無言で首を横に振る。
「では身体を…?」
さらに激しく、あかねは首を振った。
なぜか、そう聞いてほっとしている自分を苦々しく思う。
夢中になるものなど、何もなかったはずなのに、気がつくとこの小さな姫君のことを全身全霊で案じている。果てはのめり込んで溺れてしまってすらいいと、感じている自分…。
何度も愛しさゆえのジレンマに自ら結末を見つけてきたはずなのに、気がつくとまた同じ矛盾を感じていた。
「この間は頼久さんが溺れて…息をしていなかったから、私夢中で人口呼吸をしたの。五行の力を与えるとか、そんなこと何も考えてなかった…」
「ふむ……。それが結果的に彼の息吹と生命力を取り返したというわけか。……そして五行の力も…」
あかねはこくんと頷いた。
「それでもまだ頼久さん立ち上がるのもやっとで……」
どしゃぶりの中ではますます悪くなると思い、近くに見えたホテルで休んだこと、そしてその後、また口付けで頼久に力を与えたことを、しどろもどろにあかねは語った。細かいことは何も言わなかったが、友雅は言葉の響きから二人の接触の度合いを測ることができた。
(頼久の自制心がひとまず勝った……というわけか……)
あの状態で果たして勝ったと言えるのかどうか…。
頼久ならばまず「負けた」と思っているであろうが。
「………神子殿は………どうしたい?」
逆に問い返され、あかねははっとして友雅の顔を見上げる。
艶を帯びて潤みがちの友雅の瞳は、何も急かさず、何も気負わせることなくあかねをじっと見つめていた。
吸い込まれるような眩暈を覚えながらも、兄とも父とも思えるような労りと慈愛を感じる。
きっと友雅になら自分の気持ちを打ち明けられるだろう。また、そう思ったからこそ、あかねは口火を切ったのだ。
「私は……、みんなを助けたい……。この世界を……壊したくない…」
でも…とあかねはまたしても俯いた。
「……このままじゃ何も救えない。私、皆に龍神の神子といわれて大切にされて、ずっとうぬぼれてきた。ひとりじゃ何にも出来ないくせに……、ひとりじゃ、何も決められないくせに…。それなのに……やっぱり…、自分の感情が大事だなんてっ」
スカートにぽつりぽつりと染みが広がる。
(また……私…、泣き虫だ……)
友雅は目を細め、名を呼びながらあかねを抱き寄せた。
「神子殿」
「と、友雅さんっ…?」
胸元に顔を押し付けられ、いきなりのことで顔に朱を上らせたあかねは離れようと軽くもがいた。
くつろげた胸元からは、目の前にエメラルドグリーンに輝く宝玉が見える。
柔らかな友雅の香りと、思いがけぬ程の男っぽい仕草に彼女の心臓は壊れてしまいそうなほど強く打ち続く。
「宝玉に、口付けてみなさい。………唇によりはましだろう?」
囁くような友雅の言葉に、あかねはびくりっとして動きを止めた。
「で、でもっ、…だって…その、」
「君の言いたいことは大体予想がつく。止められなくなると……、そう言いたいのだろう? 君は」
友雅の腕の中ですっかり大人しくなってしまったあかねは、観念したかのようにようやく頷き返した。
「本当にそうなのかどうか…、試してみなさい。私を信じているのなら。
我々八葉が、君のいやがる事を無理やりにでも押し通す人物なのかどうか」
「でも、五行の力を上げると……私……身体が……あの…」
「………そういうことか…。
分かったよ、姫君。
大丈夫、私を信じて、試してごらん」
ようやく、あかねがここまでごねる理由を承知して、友雅は頷いた。
例え心に決めた相手でなくても、嫌がらずに応じるのであれば、男は止めることは出来ないであろう。
けれど抱きしめた腕をほどくどころか、きつくウエストを引き寄せ、あかねの柔らかな髪に指を差し入れて、友雅は尚一層強く、あかねの顔を己の胸に押し付けた。
「と、友雅さ…ん…」
呟きと共に吐き出された息が友雅の胸をくすぐる。
ぞくりと、友雅の背筋を快感が駆け抜け、彼はゆっくり目を閉じた。
(宝玉になど口付けなくとも、抑えきれないほどの情熱が溢れているものだがね……)
「正直、私も身体の方が限界らしいのだよ。これ以上気が弱まってしまったら、またこの世界の穢れた五行の力の影響を受けてしまい、自分の気が保てなくなってしまう…。そちらの方が、君を力づくでも奪ってしまう可能性は……高いと思うけど?」
友雅が喉の奥で快さげに笑った。
「そ、そうなの……?」
あかねは瞳を目一杯見開いて、じっと宝玉を見つめた。
『宝玉への口付けは駄目だ』
あの時、泰明はそう言った。
知らず震えのとまらぬ身体で彼女を抱きしめ、熱い吐息をはきながら。
好きな人に強く求められ、そして他人に渡すまじと激しい思いでかきいだかれたあの日がもう遠く、けれどまだ痛みを伴って思い起こされる。
(もう……、戻らないね……)
泰明の瞳に映るあかねは、今やただの『龍神の神子』。
エメラルド色の輝きがまるで泰明の片方の瞳に思えて、あかねは引き寄せられるように唇を寄せながら目を閉じた。
大変お待たせしました。
いや、そろそろ鬼の方々も鬼につかまってる(?)方々も
どーなっているのやら気になっているところと思います。
え? 永泉はどーしたって…?
彼はぼーさんですから(^^;;
そのうちじっくりと…(爆笑)>違うだろっ!
