第弐章其ノ八
「うみぼうず…? ……ですか??」
頼久は聞きなれない言葉に眉を潜めながら繰り返した。
「う…ん。私もピンとこないんだけど…」
「申し訳ありません、“うみぼうず”…とは一体……?」
海のない京で育った頼久には馴染み無い言葉である。かといって別にあかねも詳しいというわけではないのだが、とにかく彼にわかってもらえるよう一生懸命に説明した。
「あのね、…えっと海に出没するって言われている妖怪なんです。
ひしゃくで水をくんで船を沈めちゃったり、嵐を起こして転覆させたり。あ、後子供をさらったり、泳いでる人の足を引っ張って溺れさせたりするって………えっと……、そういう悪い事をする妖怪なんですけど………と、あれ? これって違う妖怪だったっけ?
だから…ですね~、とにかく海に出る妖怪なんですけど、わ、分かります?」
額に汗すら浮かべて、身振り手振りを交えながら必死で説明してくれているのだが、残念な事にあかねが説明すればするほど、頼久の中の“うみぼうず”像は不鮮明なものになっていく。しかも何やらあかね自身も、いろいろな妖怪の話とごっちゃになっているらしい。
「あの、だから……その…」
「ぷっ……」
いかにも真剣なその様子が余りにも愛らしくて、頼久はつい吹き出してしまった。
「ひ、ひど~~いっっ、頼久さん、笑うなんてっっ;;;」
「も、申し訳ございません。ですが……」
笑いを堪えて真剣な顔を作ろうとするが上手くいかない。
つぎから込み上げてくる笑いを懸命に抑えながら、頼久は胸に溢れる暖かい想いにひたった。
この想いは枯れることがない。
例えあかねが他の誰かを見ていようとも、それでも…。
「もぉ~~~」
ぷっと頬を膨らませてそっぽを向くが、ふいに何か思いついたように笑顔に戻る。
鮮やかな表情の変化に頼久が見惚れていると、後ろに回した手を組んで幾分ほっとしたようにあかねが言った。
「でも………いいです。
やっと頼久さん、笑ってくれたから……。
この間からだけど、ずっと何か考え込んでるみたいで、ここの所にしわを寄せて怖い顔してたから」
言いながら自分の眉間の所を指さした。
「そうでしたか?」
「そうです」
「申し訳ございません」
「もぉーーーっ、謝らなくてもいいのっ。
さ、じゃあ早速その海坊主が出たって病院にいってみましょう」
明るく言い放って頼久の腕をとったあかねは、引き摺るようにして気温の上がり始めたオフィス街の道を歩き始めた。
腕をとって少し前を歩く彼女の淡い色の髪が風になびいて、ふわりっと頼久の視線の下の方で踊る。
(…けれど、お元気がないのは、あなたの方です…)
頼久があかねの顔に視線を落とす。
一生懸命明るく振舞っているものの、瞳に宿る僅かな影は消せない。
何があったのかは、きっと聞いてはいけないこと。
主であるあかねに、その心の内を問いただすなどとはもっての他。
そう思って今朝見聞きしたことも心の奥にしまいこみ、頼久は口を閉ざす。
何とかして彼女の憂いを取り除きたかったが、反面、あかねが何をそんなに悩んでいるか聞くのが怖くもあった。今、彼女の口から彼の名前を聞きたくない。京の埃っぽい路地を歩いて探索していた頃に戻ったかのような、今、この時だけは…。
捉われた腕が、あかねの温もりを伝えてくる。
そのまま引き寄せて抱きしめてしまいたい思いをこらえ、頼久はぐっと唇を噛み締めた。
頼久のその思いは、本人が何と否定しようとも、すでに主と従者の枠を超えていたのだった。
「あの病院かな…? 他にそれらしき建物はないし、ちょっと行ってみましょう?」
電車を降り、海の方へ向かいながら、数件の小さな商店やタバコ屋で噂話を聞いて歩いてきた。かなりの距離だったが、頼久は瞬く間に過ぎてしまったような気がして、そのいかにも古めかしい建物に恨めしそうな視線を向けた。
「…はい」
とうに昼休みを終え、午後の診療が始まっているだろう時間だ。
周りにはそう住宅があるわけではないが、魚市場、学校、企業などがあるせいだろうか、十数台ほどとめられる駐車場は満杯だ。
これなら患者を装って中に入り込むのは容易い。
二人は早速建物の中に入って患者のふりをし、待合室にいる他の患者達にさりげなく噂を聞いてみたが、結局、ここに来るまでに聞いた話と大差はなかった。あかねがそこにいても何も起きそうな気配はないし、─── 決して何か起こる事を待っていた訳ではないが… ─── たいした収獲もなく、まもなく二人はその病院を後にした。
「まさか看護婦さんに聞く訳にもいかないよね~~。う…ん、これからどこを探そう…」
早、日は西に傾き始めている。
屋敷を出てきた時点ですでに昼を過ぎていたので仕方ないが、もうそれほど長い時間は探索できそうにない。会社帰りの人々が徐々に目に付くようになってきた。
「少し海の方に向かってみてはいかがですか? “ウミボウズ”というくらいですから、海に出るのでは?」
このまま帰ってしまうのが残念で、頼久は思わずそう口にしていた。
もしもこの時引き返していたのなら………。
きっと運命は違う方へと回っていただろうに。
「…それもそうだね……。うん! 行ってみよう」
街の中心へ向かいかけていた二人は、そのまま踵を返して人波に逆らいながら海の方へと歩き出した。
下町から埋立地へ向かう橋を渡って、そのまま河に沿って行く。
生活の匂いのする場所から離れ、閑散としたその埋立地は、ほとんどが工場とそして忘れ去られてしまった空き地が広がるばかりだ。
夕暮れが足元までに忍び寄ってきて、遠くに見える大きな橋が星を散りばめたように煌いている。
すぐ向こうには、海の上に高速道路がかかり、行き交う車のライトが黄昏た空に線を描いていた。
……ふと…。
頼久は何かを感じて立ち止まる。
弱まった身の内の五行の力は頼りなくとも、己の鍛え上げた感だけは信じられる。
(……………何か…………いる……?)
気の変化は感じられない。
けれど気配の有無は…。
「神子殿…」
見下ろしたあかねの表情はどこか虚ろで、そして魅入られたようにふらふらと海の方へと向かっている。
隣にいる頼久などまるで目に入ってないようだ。
「神子殿?」
僅かに頬を高潮させて、視線は一点、1Km程向こうに見える防波堤を見つめている。
ふらふらと歩いていってしまうあかねに、頼久はどうしたらよいか分からずにその後ろを付いていくしかなかった。
一歩踏み出すごとに空気が変わってくる。
黄昏独特の纏わりつくような夜気に孕むべとついた感覚…。
防波堤の方に近づくにつれ、だんだんとその感覚は強くなり、足元がアスファルトからコンクリートへと変わった時にはもうまるで水底を歩いているように…、空気が確かな抵抗感を持って二人を包んでいたのである。
「神子殿!」
そのまま車止めを越えて足を踏み出そうとしていたあかねの体を、頼久は腕を引いて抱きとめた。
明らかに何者かの気配は強くなっている。
それも通常なものではない。
殺気こそないものの、狂気と、底知れない欲望を孕んだ妖しの気配。
「くっ…」
ねっとりとした空気のせいか気配の元が掴めずに、頼久はあかねを抱きしめたまま油断なく辺りに目を走らせた。
(どこにいる……? “うみぼうず”という物の怪か?)
亡霊や怨霊というにはあまりにもはっきりと感じられる存在感。
うみぼうずと対峙したことはないが、頼久はそれが“うみぼうず”であるとほぼ確信していた。
ねっとりと纏わりつく気は、弱まった頼久の五行に禍々しい力を伝えてくる。
息苦しくなるほど密度の高いこの氣…、紛れもなく水の氣。
(水……水!? そうか…神子殿は……)
あかねは龍神の神子。そしてその属性は水である。
圧倒的な、穢れた水の氣に影響されて己をなくしていた。
頼久の腕に抱えられながらも首を回して海を見つめ、そちらに踏み出そうと彼を押しのける。
「神子殿っ! しっかりしてくださいっ!」
今はもうはっきりと防波堤からほんの僅か離れた水面あたりに、妖しのモノの気が感じられる。
頼久は強引にあかねを縁から引き離しながら、その頬を軽く打った。
ぼんやりとした彼女の瞳に僅かながら輝きが戻り、おぼつかなげに焦点を結ぶ。
「や…すあき…さ……ん…?」
頼久の目が見開かれ、反射的に握り締めたこぶしが震えた。
「……頼久です……、しっかりしてください……神子殿?」
胸が痛んだ。
今がそんな時でないと知りつつも、抱きしめる腕に力がこもるのを抑えられなかった。
今彼女を腕に、妖しから守っているのは、紛れもなく自身、源頼久……であるというのに……。
「…より……ひさ…さん…? き…をつけて……」
己を取り戻し始めたあかねが、頼久の肩越しに視線を移す。
はっとした頼久があかねを庇って身構えるより早く、彼の後ろのそれが動いた。
「くぁっっ!」
「頼久さんっ!?」
海の方の気配にばかり気をくばっていて、後ろがまるで無防備だったのだ。
背中に激痛を感じ、あかねを庇いながらよろめく身体を支えようと足を踏み出したが、その足元に確かな感触がない。
「!?」
視界がぐらりと傾ぎ、支える足場をなくした二人の身体はそのまま防波堤から海へと投げ出された。
ゆっくりと近付いてくる海面が、ゆらゆらと揺れながら淡い燐光に包まれ、青白く光っているのが目に焼き付いた。
(頼久さんっ!?)
しっかりと抱きかかえられたまま浮遊感を感じ、そして次の瞬間には激しく水面に叩き付けられる感覚があった。思った程に痛みがなく、まるで他人事のように思えるのは、頼久に守られていたからだろう。
目にも鼻にも大量の水が押し寄せ、頼久に声をかけようと開きかけた口にさえ容赦なく塩辛い水が流れこむ。しかし、いくらかでも水泳の心得のあるあかねは、それで意識がはっきりし、まだ高くない水温のせいもあってようやく己を取り戻して状況を呑みこんだ。そして水を飲んでしまわないように身体に意識させる。
(頼久さん?)
頼久も予測していたらしいが、衝撃であかねを離してしまわぬよう身構えていたために己の方にはあまり感心をはらっていなかった。瞬間的に大量の水の侵入を許し、苦しげに顔を歪ませた。そしてさらに出血と冷たい水のせいで急速に意識が薄れはじめ、精神力で抵抗するものの、徐々に手の力が抜けてゆくのを止められなかった。やおらゴボリッと空気を吐き出し、苦しげにもがく。
あかねはなんとか頼久を水面まで連れていこうとするが、もがく身体は沈んでいく一方で、一向に水面に近付くことは出来ない。
(だめ、力を抜いてよ、頼久さんっ!)
“枷”のように纏わりつく暗い水の中で、遥か頭上の水面だけが蛍光塗料を塗った壁のように光っている。
その美しさは、とても禍々しいものだとは思えないほどだ。
埃のように漂う僅かな光が、幾つかあかねと頼久の回りに纏わりつき、生死の境にいるにもかかわらず、まるで星空の中にいるかのような幻想的な思いに捕われる。
……しかし。
何気なく足の下の方に目をやったあかねは、一気に血の気が引いた…。
(あ、……あれ……、あ、れって……)
足元の、さらに遥か下方。
海面と同じように、いや、まるで写したかのように海底までもが光っている。
ともすればどちらが海面でどちらが海底か、分からなくなってしまいそうだが、そこには決定的な違いがあった。
(…もしかして……あれって……やっぱり、…………人……?)
ユラユラと、海底に咲いた花のように、人の形をした燐光が幾つも光っていた。
何かに繋ぎとめられているのだろうか?
上に浮き上がってきそうなのだが、一向に上がってくる様子はない。
(や、ひょっとして………私達も……なの??)
海底に沈む人形の燐光。
……あれは、あかね達のように落ちたか、もしくは引き摺りこまれた人々のなれの果てであった。
上に向かって泳ぐあかね達のまわりにも、燐光の数が増えてきた。
それ自体に害はないのかもしれないが、身体に張り付く無数の淡い光は、遥か下方の花園の中に導いているような気がして、あかねはゾッとした。
そしてふと、しがみつくようにして抱えている頼久の力が、すっかり抜けてしまっていることに気付いたのだ。
(頼久さんっ!?)
早く水面上に出なければ、頼久はこのまま……。
そう考えるや否や、あかねは躊躇無く頼久の唇に己の唇を重ね、残り少ない口腔中の空気を送り込む。
そして力一杯、粘り付く水を蹴った。
─── が。
(っ!?)
しがみついて引っ張っていた頼久の身体が、がくんっと突然重くなったのだ。
(な、なにっ!?)
とっさに頼久の足元を見ると、海底から延びた黒い紐のようなものが彼の足に絡みついている。
(やだっ! 離れてっっ!)
夢中で頼久の身体を引っ張るが、紐の力は思ったよりも強いらしくじわじわと底に向かって引きこまれていく。
(だめぇっ! 頼久さんから離れてよっっ!)
思い余って頼久から離れて足元に回りこんだあかねは、絡み付いた黒いものを掴んで引き離そうとした。
それは、ぬるぬるとしていて滑り、力の込めようがない代物だった。
(これって、海藻……なのっ?)
紛れもなくそれは海藻だった。
細く綱のように捩れてはいるが、その手触りは若布や昆布そのものだ。
(や、やだぁ…)
あかねの息も、そろそろ限界が近付いてきた。
途中、頼久に空気を分けてやったせいもあるが、時間にすればもう1分近くも水中に潜っているのだ。
けれどどんなに引っ張ろうとも頼久の身体は下に向かう一方で、水中といえどあかねの力ではもう無理であった。
あかねの意識もどんどん薄れていく。
もがけばもがくほど苦しくなるのは分かっているが、肺がもう限界まできている。例え海水でもいいから、肺を満たしたかった。
(も……だめ……)
頼久を置いていくなど、これっぽっちも思い浮かばなかった。
薄れていく意識の端に泰明の顔が浮かぶ。
(やすあきさ……ん……)
そして……。
暗い淵の中に意識が呑まれていき、やがて身体から一切の力が抜けた。
ふよよっっ! これはなんつー展開かっ!?
やはり死人がでるんでしょうか、このネオスィートロマンスで(爆笑)
ともあれ、ある方、ご出演予定だったんですが、
余りにも長くなりそうなんで、次回に繰越(笑)
ちょっと第弐章は9回で終わりそうにないかも…
無理矢理第参章に繰り越すかっっ!? ともかく、其の八、お届けです