第弐章其ノ六
ピチョン… ───
しんと静まりかえった暗い廊下に、どこからかの水音が淋しく響く。
水音…?
確かに海が近いといえば近いが、滴り落ちる音は海からのものではない。
廊下に水道もない。
一体どこから響くのだろうかと不信に思った女性は、椅子から立ち上がりカウンター越しに廊下を眺めた。
同僚の女性は、今、今夜二度目の見回りに行っている。
ピチョン…。
またしても水音。
僅かに眉をひそめ見回り用の懐中電灯を手にすると、彼女は明かりのついた部屋を出た。
非常灯だけがぼんやりと灯る廊下。
彼女の身に付けている白衣が、いやでも鮮やかに闇に浮かび上がる。
真っ直ぐに延びた廊下を音源の方へ歩いてゆく。
闇が怖くない…と言えば嘘になる。
この勤め先でも、例に漏れず多々の噂話が存在していた。
地下の遺体安置所から聞こえる呻き声。
そして無人の部屋から受けるナースコール。
彷徨う亡くなったものの姿…。
しかしそれが怖くて病室の見回りをしないという訳にはいかない。
彼女は軽くため息をつき、躊躇する足を無理矢理前に運んで、仕事だと自分に言い聞かせた。
足音がこだまする。
ピチャッ………。
そして水音もまだ響いている。
廊下の中ほどまで来ると、階段の踊り場が左手に見えた。
ここは四階建ての建物の二階だ。
踊り場からは下に続く階段と、上に続く階段が延びていた。
ピチョン………。
不信な水音はその階下の方から聞こえている。
(下はロビーと診察室……)
一階、夜は無人となる。
トイレ等の水回りはあるが、今まで五年ここに勤めている間に、そんな音が聞こえたことなど一度もない。
彼女は意を決して階段を下りていった。
一歩下りるたびに水音が大きくなってゆく気がして。
そして「ピチョン」と落ちる音に加えて、「ズズッ」とか「グチョ」というような、まるでびしょ濡れの雑巾を床の上にわざわざ落としているような、そんな音まで聞こえてくる。
そして階下につき、ロビーのフロアに目をやった…。
「ひっ───!!??」
悲鳴が喉に張り付いた。
カランと堅い音を立てて、懐中電灯が床に転がる。
その光の輪が、奇しくもそこにある「モノ」の姿をはっきりと照らし出す。
一気に身体が硬直し、逃げることも忘れてその「モノ」に視線が釘付けられる。
ビチャン… ───
一際大きな音を立て、その「モノ」がこちらを向いた。
見たくない。
声をあげたい。
逃げ出したい。
思いだけが錯誤して、身体はその場に佇んだまま、それから目が離せない。
灯りにぬらりと光る黒い体。
見るとそれはぐっしょりと濡れて捩れた太い糸のようなもので。
それに全身を覆われた、人の身体の二倍以上もある物体が床に這いつくばっている。
頭は身体の幅よりも大きく、肩から直接続いていて首が無い。
その頭がこちらを向いた。
「っっ!!!!!」
野球ボールほどもあるそれの「目」。
瞳もなく、まるで濁ったビー玉のような……。
目蓋らしき白い膜が下から上に向かって何度か昇降され。
それが彼女の方に向かって身体を動かした時、限界だった彼女の精神はそこで切れた。
意識を失う寸前彼女の感覚には、どろどろに腐った魚から漂うような腐臭が、焼きついたように残された。
あれから三日が過ぎた。
ようとして詩紋とイノリの行方は知れず、泰明や永泉、藤姫が必死になってその行方を占い、気を探ろうとも、一向に居場所はわからなかった。
館の主が一族の勢力を傾けて捜索しても、まるで足取りは掴めない。
そう………まるで、現世から姿を消してしまったかのように。
「どうすればここまで、綺麗に気配を消してしまうことが出来るのでしょうか……」
永泉はそっと、握り締めた数珠をテーブルに置き、ため息をつく。
隣では藤姫が青白い顔色のまま唇を噛み締めていた。
あの知らせからずっと食事もろくにとっていないので、頬が肉落ち、今にも倒れそうなほどに憔悴していたのに、占いをやめようとはしないのだ。
何度も何度も…。
片時も水盤や鏡を離そうとはしない。
あかねが泣きながら頼み込んでようやく睡眠をとる…。
そんな状態だった。
「強い結界に阻まれて気配を探れないか、…それとも京のような別の世界に取り込まれてしまったか……」
泰明が眉間にしわを寄せて呟く。
三人とも、詩紋とイノリの気配が消えたからといって、二人が死んだ……とは思っていなかった。五行の力が弱っているとはいえ彼らは八葉。同じ八葉の彼らに、そして龍神の神子になんの衝撃も与えずに逝くとは思えない。
(……気配の感知出来ぬ程の遠方に……連れていかれたのか?)
何の痕跡も残さず、それは難しい。
泰明は即座にその考えを否定し、結果の出ない八卦鏡や水盤に視線を落とした。
「…こうしていても仕方あるまい」
尋ね人や失せものは、藤姫や永泉の方が得手である。
その二人が捜し当てられないものを、彼が幾ら占ったとて無駄だ。
「鬼の行方を………捜す」
「泰明殿?」
永泉が顔を上げ、不安げに泰明を覗き込む。
あの夜に垣間見えた感情の揺らぎは、既にない。
鷹通が戻って来た時には、彼はもう屋敷に帰ってきていて、夜に起こった事など何も感じさせない、いつもの無表情に戻っていた。
責任を感じて俯く鷹通に、
『今は悔いている場合ではない。詩紋とイノリを捜し出すのが先決だ』
そう言ったのは泰明だった。
そして永泉と藤姫に「二人の居場所を占え」と言い置き、すぐさま鷹通と恵梨を連れ、二人の消えたと思しき場所に向かった。
その迅速な対応、判断は、もういつもの泰明だ。
永泉はまたしても、頼久、泰明ともに訊ねる機会を逃し、今に至るまでそのままだった。
「…分かりました。皆を下に呼んでくださいませ。
私からきちんとお話いたしますわ」
今後の動きを、統一しておかなければならない。
二人を捜す事が優先事項だとしても、鬼や怨霊は、………待ってくれない。
すでにこの三日の間も、派手でないとはいえ、あちらこちらで怨霊の仕業と思える騒ぎが持ち上がっていた。
そして、それにどう判断を下すかは、星の一族の姫である藤姫と、龍神の神子…。
藤姫が階下に行くと、もうすでに屋敷にいる全員がリビングに集まっていた。
頼久、天真、友雅、鷹通、泰明、永泉。
そしてあかねと周防。
それに何故かあの日から行動を共にしている恵梨。
彼女は詳しいことは知らないものの、詩紋とイノリが行方不明になってしまった事に責任を感じ、どんなに鷹通が説得しようとも一緒に彼らを捜すと言ってきかなかったのだ。
そんな恵梨をじっと見つめて、藤姫は困って眉をひそめた。
あかねに視線で救いを求めるが、彼女も困ったように表情を曇らせるだけ。
(確かに人手は幾らあっても困る…というものではないのですが…)
現し世を捜すのみなら屋敷の主の勢力を持ってすれば事足りる。
でも、どれほど無力であろうとも、彼女は二人を捜すのを止めることはないだろう。
二人を捜すかぎり、怨霊や鬼と遭遇する確率は格段に増え、いつか彼女に降りかかるのは必死だ。
それだけは避けねばならない。
八葉と行動を共にしなくとも、きっと彼女は一人でも行動するだろう…。
ならば…。
(やはり…ある程度は…彼女に打ち明ける必要がありますね…)
藤姫は嘆息した。
それで引くならば、…よし、と。
恵梨は藤姫の話をじっと聞いていた。
驚いたり、困惑した表情をしたりはしていたが、口を挟むことなく黙っていた。
時折補足する友雅の言葉や鷹通の言葉の時も。
一通り話し終わった後、彼女はしばし考え込むように首を傾げて俯いていたが、すぐに顔を上げると藤姫と、そしてその隣に並び立つあかねに向かってにっこりと微笑んだ。
「話してくれて、ありがとう。
怨霊とか…、それを退治する力とか言うことは私、理解出来るよ。
幽霊とか死後の世界とか、信じられないってほど現実的じゃないし、私だって人には信じてもらえないような体験した事もあるから…。
でも京っていう世界とか…、アクラムっていう人がこの世界をどうにかしようとしてる…って事はすぐにピンとこないみたい」
信じていなって訳じゃなくってね……。
と付け足しながら、恵梨はウィンクを投げた。
「それでこれからのことなのですが………」
「藤姫ちゃんの言いたいことは分かるよ…。
─── こんなふうに話してくれるってことは、私、きっと足手まといになるって、そういうことなんでしょう?
……でも、でもね、私、頭でわかってても、割り切れないよ。
私のせいだもん。
あの日、あの場所に着いた時、明らかに鷹通の様子は変だった。それにイノリだって急にテンション高くなったみたいに感じたし、詩紋も具合が悪そうだった。
あの中で、普通でいられたのはきっと私だけだったのに…、分かってたのに…」
ずっと堪えていたのか、積もっていた罪悪感を口にした彼女の声は震え、上擦っていた。
鷹通もぐっと唇を噛み締め、拳を握り締める。
「……あの時、今の話しを聞いていたら、別々に行動するなんて、いえ、あの場所にあんな時間に行くことなんてしなかったのに…」
「いえっ、恵梨さんのせいでは、」
「鷹通」
恵梨を庇って口を開いた鷹通に、静かな、そして少し揶揄するような響きの声が掛けられた。
「と、友雅殿…?」
「彼女のことは、君が守るのだよ?
何からは、君がよく分かってると思うけどね」
「……そうですね。それが一番いいと思います。
鷹通さん、恵梨さんを…お願いします」
「神子殿…」
またまた私好みの怨霊登場っ!(爆)
…って、本筋はどうしたっ;;;;
恵梨ちゃんも加わって、ようやく役者が揃いました。(伏線はまだ足りないけど~♪)
しかし泰明さん、あなた一応主人公の一人なんだから、もう少し喋ろうよ(^^;;)
でもこの章での彼の活躍は少ないのよん
熱烈な泰明さんファンの方、次章までもうちょっとお待ちくださいませ。
次の巻からは頼久さん活躍???