第弐章其ノ五
どんなに長い一日であろうとも、必ず次の日の朝は訪れる。
昨夜の蒸し暑さが嘘のように清々しい、早朝の微風。
一番美しい季節とも言える初夏の朝ぼらけの中、永泉は木々の立ち並ぶ裏庭を思案しながら散策していた。
呼びかけるようにさえずる小鳥達の声も、今の永泉の耳には届いていない。
(……聞きそびれてしまいました……)
夕べ遅くに起こった出来事。
天真の負傷。
泰明の危機。
ようやく無事に帰りついた泰明とあかねの変化。
そして何よりあかねの分からない行動…。
その後、何故かいつものように回復した天真が屋敷を飛び出していき、すぐに泰明も姿を消した。
あかねが屋敷内にいるのだから、二人ともさほど遠くに行くことはないと思うが、五行の力が低下している永泉にその気を感じ取ることは出来なかった。
友雅は、何か分かっているようだった。
あの一見からかっている様な態度の裏側で、真実を見透かしているような人物だ。
昨夜とて、永泉と泰明、そして天真とあかねの行動から、きっと何か答えを導き出しているはず…。とても真実に近い答えを………。
鬼の動きも軽視出来ず、永泉は爽やかな朝の風景とは裏腹に微かな苛立ちを覚えた。
(もしかして何も知らないのはわたくしだけ………?)
そんな考えに思い至り、彼はその場に足を止めて更に深く考え込んでしまった。
(わたくしなど取るに足らないと………、何の手立ても出来ないと………。
話す必要もないと…………。…………そうなのでしょうか…)
本来の消極的な考え方も手伝って、彼はどんどん悪い方に考えていってしまう。
(やはりわたくしは……、この世界にくるべきではなかった…?
そうなのですか? 神子…)
あかねの柔らかな微笑が脳裏に浮かぶ。
あの…懐かしい音羽の滝で。
自信を持てずに落ち込んでいるばかりの彼を励ましてくれた……。
永泉ははっと顔を上げた。
(…いけません)
自虐的に考える事の結末を、永泉は知っているではないか。
軽く頭を振ると、暗い考えを振り払って、毅然と前を見つめた。
柔らかな風が髪をさらりと撫で、木立の奥へ消えてゆく。
ふと風の行方に目をやると、裏庭の方から人影がこちらに向かってくるのが見えた。
遠目にも分かる長身。
長い髪を煩そうに高く一つにまとめ、片手には現代にきて調達した木刀が握られている。
「頼久…」
近づいてくるその人影は、八葉の一人、頼久であった。
朝の鍛錬を終えて、屋敷に向かうところであろう。
息こそ上がってはいないものの、額に薄っすらと汗が浮かんでいる。
こちらの世界にきてからも、頼久は毎朝の鍛錬を欠かすことなく続けていた。
もっぱら屋敷の裏に広がる林の中の僅かに開けた場所を好んで、そこで刀をふるっているのだった。
「永泉様」
まだ彼は何も気付いていないのだろうか?
この頃とみに柔らかくなった表情を惜しげもなく見せて、頼久は軽く会釈した。
(彼に……、訊ねるべきでしょうか…? それとも…)
頼久が主従関係を超えてほとんど盲目的に神子を愛していること、本人とあかね以外ほとんどの者が気付いていた。
泰明とあかねの心が通じ合っていると知ったとき、一体頼久は何を思ったのだろう…。
永泉は“自分”というものをほとんど出さないこの無骨な武士を今更ながらにまじまじと見つめ、昨夜の事を相談するか否か迷った。昨夜彼はあの場に居合わせなかったのだ。
どこにいたかなど聞くまでもない。
おそらくは屋敷の周辺を警護して回っていたのだろう。
その後、藤姫か友雅にでも聞かなければ、…………いや、天真の部屋で起こったことはおそらく永泉と…そして何故か泰明にしか分からないような気がした。
友雅ですら、それは想像上のもので、確信ではないはずだ。
じっと頼久を見つめたままの永泉を少々訝しげに思いながらも、頼久は彼の言葉を行儀よく待っていた。
「………朝の稽古ですか?」
「はい」
「精が出ますね」
何か言いたそうで、それでも口に出すことをためらっているのを察した頼久は、永泉がゆっくりと屋敷の前庭の方に向かって歩き出したのに歩を合わせながら僅か後ろをついてゆく。
「天真殿が昨夜遅くどこかに行かれたこと……、ご存知ですか?」
「天真が…?」
直接、あかねの話に行くことが出来ず、永泉はひとまず天真の事を口にする。
「泰明殿が神子の力によって回復されたように、天真殿も…どうやら神子の力で回復したようなのです」
「…そうですか」
半身とも言える天真の回復にほっとしたものの、何故か表情の晴れぬ永泉を前に言葉の歯切れが悪くなる。
「永泉様……?」
「あ、いえ……」
屋敷の前庭に繋がる蔓バラのアーチの下で、永泉は足を止め、頼久を振り返る。
「それはとても………喜ばしいことだと思います。けれど……」
頼久にも何となく、永泉が何か重要な事を話そうとしているのだと分かった。
しかし、それは彼にとって未だそれほどに重要な事でなかった為に、永泉の言わんとする先を察することが出来ない。
─── 神子はどうやって回復させたのでしょう…?
ぼそりと永泉が呟いた。
それは、泰明が何事もなく帰還した時から漠然と感じていた疑問だ。
泰明もあかねも詳しい事は何も話していない。
初めはさほど気にしていなかった頼久も、あらためてその事を考えるに連れ疑問が湧き上がってくる。
そして、永泉はあのようなあかねの姿をその目にしてしまったのだから…。
「神子は………、『五行の力を生み出す事が出来た。けれどその方法はよく分からない』と………そう言いました」
「………」
頼久は黙って永泉の言葉を待つ。
「生み出す事が出来たのに、その方法がよく分からない……というのは、少し矛盾していると思いませんか?」
永泉は一度言葉を区切ると、青く澄み渡った空を見上げた。
「よく分からないのではなく………ひょっとして口にする事が憚られたのでは…」
そうだ。
それならば、納得できる。
泰明が口を閉ざした訳も、あかねの理解出来ない行動も、そして天真の飛び出した理由も説明出来る。
「もしかして………」
「永泉様、……?」
「私は、」
真実を口に出そうとする正にその瞬間、永泉の言葉は静かな空間を切り裂く爆音に遮られた。
─── バルルルルゥゥンッ! バルウンッ………
早朝で…。
しかもこの辺り一帯が私有地であるために、街の喧騒など届かない。
故に文字通り、天地を揺るがすと思えるほどの爆音で、庭にいた二人も、そして屋敷の中にいた者達も思わず前庭に飛び出してきた。
「な、何事ですのっっ!?」
「どうしたのっ? 何かあった!?」
「一体何事だい? この音は…?」
「………」
彼らが見守る中で、カースロープの砂利を巻き上げながら派手な赤のスポーツカーが急停車した。
そして助手席の方から、車が止まるのも待ちきれずに飛び出してきたのは………。
「鷹通!?」
「た、鷹通さん??」
天の白虎、藤原鷹通であった。
「詩紋とイノリは? 戻ってきていますか!?」
眩いばかりの曙光など、一筋も通さぬ分厚いカーテンのかかった一室。
大人が三人はゆうに眠れるほどの大きさのベッドが据えられ、その上に気だるげに身を起こしている男がいた。
引っ掛けられただけの白い襦袢のような着物は、開けられたままの合わせから覗く素肌をいっそ艶かしく引き立てている。
寝起きなのか、それとも一睡もしていないのか…。
男は整った顔の眉間を僅かに寄せて、不機嫌そうにカーテンがかかったままの窓を見つめていた。
そして気紛れに立ち上がると、掛けただけの着物がはらりと床に滑り落ちるに任せた。
彼は何も身に付けていなかった。
腰までも覆うほどの金色の髪が、今は結い上げられることもなく無造作に背に流れている。
そのまま窓に近づくと、ほんの少しだけ………カーテンを開けた。
「っ! …………」
眩し過ぎる光。
目に刺さる………空の青。
望まぬ者にも無理矢理に、これ見よがしに投げつけられる強い陽の氣。
その男 ────── アクラムは、朝日から目を背けると、カーテンの隙間はそのままに、薄暗いベッドの方へと踵を返した。
部屋の中央に、一枚の光の幕が出来上がる。
(………何を………望む……?)
これほどに穢れた陰の氣が強い世界であっても、夜明けの清らかな光はそれが差し込む僅かな時間だけ、深い闇を浄化する。しかしその清浄な氣は、曙光から一刻もしないうちに穢れ、淀んだ氣に犯されてゆく……。
(もうすぐ………、我の望んだものが手に入る……。全ての畏怖と……そしてこの虚飾に満ちた世が………)
─── 望んだもの…。
アクラムは再びベッドに腰掛け、ゆっくりと身を横たえた。
「………我が…望んだもの……」
彼は光の壁を徒然に眺める。
部屋の隅の陰がより濃く淀み、僅かなはずの光は…際立ち目を奪う。
(我は………何を望んでいた………?)
「お館様」
無機質な呼び声に、アクラムの思考は中断された。
清浄な氣など望んでいないのに、何故か夜明けになるとカーテンを開けてしまう。
自分の理解しがたい行動に説明すらつけられず、それでも止める事の出来ない行為。
いつも何かが見えそうな気がする。
心の奥に潜む何か…。
「………お呼びですか…?」
昨日と、否、正確に言えば京にいた時とほとんど変わらぬ服装のランが、ベッドの傍らに立つ。
「呼んではおらん」
「?」
「用など、…ない」
「???」
感情を映さない瞳が微かに揺らぐ。
そう言えば昨夜、シリンが言っていた。
─── 封印が解けかけている
それでも、京にいた時のように己を取り戻そうとする力が弱いのは、この世界の穢れた陰の氣の影響であろうか。
「─── まあいい。ここへ、来い」
言われるがまま、アクラムの示すベッドの淵に来ると、ランは全裸のアクラムを見下ろす。
その目が、何かを思い起こすように何度か瞬きした。
「お前は我を拒まない…。そして受け入れない」
ランの手を引いてその身体を自分の懐に取り込むと、そのまま組み敷いた。
「あ……」
感情は映さなくとも、肉体に与えられる感覚はそのまま表情になる。
苦しみ、痛み………そして快感。
光の幕に隔てられた部屋の闇が妖しく揺れる。
アクラム自身、気付いていなかった。
いつからであろうか、それも定かではないが………。
仮面を外したまま身体を重ねるのは、この感情の表れない少女のみだ…ということに。
鷹通さんってば、朝帰り~♪(爆笑)
恵梨ちゃんの愛車、CLOVEの好みでフェアレディZの想定です。
いや、本当はフェラーリの方が好きなんだけどね、高いし……>オイ
そして後半のアクラム。今回は悪役ならぬ悪役。
彼の素の一面をチラリと…。なんとランちゃんまで、押し倒してたんですね~。
しかも今回が初めてというわけではないらしい(爆)