第弐章其ノ三
しん……と、何もかも死に絶えてしまったかのように、その場所は静かだった。
遠く微かに喧騒が聞こえているような気もするが、余りにもそこが静か過ぎて、喧騒が聞こえること自体が信じられないような感じを受ける。
手入れされた境内。
僅かにその場を囲む木々。
都会のブラックスポットに落ち込んだかのようなその異空間は、その場が結界か何かで包み込まれているようで、怪しげな気配など今のところ何一つない。
鷹通も詩紋もイノリも、鬼どころか怨霊の気配すら感じないのでいささか気抜けした。
噂が響いているのか、それに日付が変わるほどの時間のせいか、人の気配はまるでなかった。
本当はまだ、夜ならば肌寒いと感じられるぐらいの時期のはずだ。
それが何故か今夜は、汗ばんで絡みつく女の肌のようなねっとりとした空気が辺りを包んでいた。
梅雨も中休みに入っているのか、ここのところ雨の気配はない。
それなのにこの湿度は異常に思える程だ。
鷹通は静まり返る境内の様子とは裏腹に、何か沸々と込み上げてくる感情に正常な感覚を狂わされていた。
何故聞こえる筈の喧騒が聞こえてこないのか。
怨霊を感じ取れないのか。
どうしてこんなに蒸し暑いのか…。
普段の…、否、先ほどまでの感覚とは確実に違っていたのに、鷹通は違っているのを認知できる判断力すら、失っていたのである。
詩紋に至っても、鷹通ほどではないが逆上せ上がるような感覚があった。
一方イノリは…、もとから、と言ってしまえばそれまでなのだが、相変わらずの高いテンションで一同をけしかける。
「ちぇっ…。何か出ると思ってたのに、なんにもいないみたいだな」
真っ暗な境内の敷石を蹴飛ばしながら、イノリは爪を噛んだ。
「静か………ですね」
「でも…何か………。う~~ん、何て言っていいかわからないけど、ちょっと変じゃない?」
「そう……ですか…?」
鷹通は詩紋の言葉を受けて辺りにもう一度目を走らせてみるが、特に変だ…と思えるようなことはなかった。
肌に張りつくような湿気が不快感と、そして奇妙な、否、慣れてしまえば甘美ともいえるかもしれぬ陶酔感を生み出しながら、鷹通を容赦なく攻めたてていた。
「こうしていても埒があかないよ~。ねえ、奥の方も行ってみようよ~」
恵梨が鷹通の腕を取り、誘う。
瞬間カァッと、まるでくすぶっていた燠火が燃え上がるように身体中が熱くなる。
「あっ、え、ええ、そうですね」
自分の身体に生まれた熱に戸惑いながら、鷹通は生返事を返し、彼女に誘われるがままに歩き出した。
「じゃあ俺らはこっちから行ってみるよ。同じ方に四人ぞろぞろ行ってもしゃーねーだろ?」
「そ、そうですね…」
イノリの言葉にも、鷹通の返す返事は心もとなく…。
なんとなくいつもと違う鷹通に、詩紋はかけようとしていた言葉を失って唇を噛んだ。
(言わなきゃならないんだけど……)
先ほどの電話で天真が大変な事になっていると、藤姫は言っていた。
今はなんとか大丈夫そうだ…とも。
(とにかく今は大丈夫だって言ってたから、後でもいいよね。…恵梨さんもいるし…)
どことなく恵梨に振り回されているように見える鷹通の事が気になって、詩紋は首を傾げた。
(……鷹通さんに限って、恵梨さんを危ない目にあわせるようなことはないよね…)
さっさと歩き出しているイノリの後を追って小さく走りながら、彼は何度も二人の後姿を振り返っていた。
「なにも出ないねぇ~~、お化けも寝てるんじゃないの?」
威勢良く言い切ってみたものの、微かな震えが鷹通の腕に伝わってくる。
所々にぽつんと設置されている薄暗い外灯だけで、視界はきかず、足元はおぼつかない。
暗闇を恐れるのは人間の本能だ。
ただ“暗い”“先が見えない”というだけで、人はその闇の向こうにあるものを恐れ、見えない何かを勝手に思い描く。
恵梨も本当は怖いのだろう。
しっかりと胸に抱え込んだ鷹通の腕を離そうとはしない。
「……そうかもしれませんね…」
鷹通は怖いどころの騒ぎではなかった。
腕に押し付けられる恵梨の胸の感触が気になって仕方ない。
腕が熱く痺れたように動かず、全ての意識がそこに集中してしまい、怨霊やお化けのことなどもはや遠い世界の出来事のような気がする。
柔らかく、しかし強い弾力のある彼女の双丘は、こと男女間においてはまだまだ初心な鷹通にとって強烈な刺激で、しかも先ほどからの異様な湿気が彼の頭脳に厚い霧をかけていた。
「……そこよ。奪衣婆の像が置いてある所は」
向こうからの外灯の明かりが、入り口の階段を照らしていた。
闇に沈むこちら側の濡れ縁がおぼろげに目に映るが、そこから中をうかがう事は出来ない。
恵梨に引かれるまま、鷹通らは入り口まで近づいて行く。
恐る恐るではあるが、鷹通の存在が恵梨を勢い付けているのか、彼女の歩みは止まることはなかった。五、六段ほどの階段を上りきると、細かい細工の施された格子戸を開く。
もわっとしたかび臭い空気。
戸外よりも幾分かは湿気が薄れているが、こもった特有の熱気が二人を包んだ。
それは鷹通の、もう取り戻すことの出来ない懐かしいものを呼び起こす。
(…懐かしい……)
京の初夏、資料の置いてある蔵はこんな匂いがたちこめていた。
盆地ゆえに夏は蒸し暑く、冬は雪深い。
もうあの場所に帰る事は、二度とないだろう。
まだ“龍神の神子”は誰のものでもなく…、日々仕事に明け暮れていた彼に柔らかな光を射しこんでくれていた頃。
薄暗い書庫の中、見失った巻物を一緒に探してくれたこともあった。
(…神子殿)
中に足を踏み入れるなり黙り込んで立ち止まってしまった鷹通を見上げ、恵梨は眉をひそめる。
「鷹通?」
“─── 鷹通さん…”
怪訝そうに己の顔を見つめる恵梨の顔に、あかねの無邪気な微笑が重なる。
(神子殿………あ…かね殿…)
決して呼ぶことの叶わない彼女の名前を、心の中でそっと囁いてみる。
“─── なあに?”
幻の彼女が返事をかえす。
あかねを愛していると自覚した、懐かしくも甘いあの日々。
繰り返す闘いの中、彼女の瞳が他の誰かを見つめていると知ったのはいつのことだったろう…。
胸に鋭い痛みが走る。
「鷹通?」
“─── 鷹通さ…ん”
「あ……」
「どうしたの? 具合悪い?」
ぼんやりする意識の中で視界がぐらりとゆれて、鷹通は耐え切れずに片手で顔を覆った。
慌てて支えてくれた恵梨に寄りかかったせいで、どこから見ても支えきれるはずの無い彼女の身体はバランスを失って壁にもたれかかった。
それでようやく鷹通は倒れるのを免れたが、その体勢はまるで恵梨を襲っているようにも見える。
「ねぇ、大丈夫?」
「ええ………」
微かに声が絞り出された。
“─── 鷹通さん、…大丈夫?”
もう、その時の鷹通は恵梨を意識していなかった。
心のどこかで恵梨がいることは分かっているような気がしたが、彼の目の前で彼を気遣うのは、かつての龍神の神子…。
“鷹通さん?”
彼を気遣い、頬に触れる暖かい手。
鼻腔をくすぐる少女特有の優しい匂い。
押し付けた身体に伝わる柔らかさが彼の身体と心を熱くする。
それが息を焼くほどに燃え上がり、瞬く間に彼の全てを包んで…。
「鷹通? ……っ!?」
息をつく間もない程激しく、鷹通は恵梨の唇を奪っていた。
恵梨は瞬間大きく目を見開いた。
反射的に手が鷹通の身体を押し返していたが、彼女の細腕でどうにかできるはずもなく、あまつさえ手を封じられて強く抱きしめられる。
(な、何? 一体どうしちゃったの~~っ?)
別にキスをしたぐらいでどうというものでもない。身体の関係をもったとしても、それを気にしたり武器にするほど、奥床しい女でもないが─── 実際、金銭と引き換えにそういう行為をしているのだから ───、どう考えても鷹通のこの行動は解せなかった。
知り合ってまだ数時間ほどしかくれていないが、恵梨自身、人を見る目にはある程度自信があるつもりだ。増して、鷹通のように馬鹿がつくほど正直な人間が、いくら暗闇で他に人がいないからと言って豹変するほど、隠された性格があるようにも思えない。
例え表面上大人しさを装っていても、奥に潜むものを持つ人間は数え切れないほどいるし、そういう人間を幾人も見てきた恵梨は、本能的ともいえるぐらい敏感にそういうものを嗅ぎ取ることが出来た。
微かにでもそういうものを感じた人には、例え商売といえども近づかないようにしている。
今でも鷹通から感じられるのは、そういった異常な性癖や感覚ではなく、激しい情熱……と狂おしい程の愛。
(も、もしかして…、誰かと…鷹通が好きな誰かと間違えてる~??)
それほど深い愛情が生まれるほどの時間を共に過ごしたとは、間違っても言えない。
まぁ、「一目惚れ」なる物も世間には存在するが、鷹通のような地道に愛を育むような人間が一目惚れしたからといってこんな行動に出るとは考えられなかった。
そうなると考えられるのは「人違い」……。
そうであっても通常なら、ここまですれば気付くものだが、確かにこの寺に着いてからの鷹通の様子は変だった。
恵梨がどうしたらいいものか戸惑っているうちに、彼の手は太股を這い登って彷徨い始めている。
再び唇を重ねられ、苦しい程に抱きしめられて、恵梨は鷹通の想い人をちょっとだけ羨ましく思った。
(こんなに愛されてるんだね…)
触れる指先から、唇から、吐息から……。
鷹通の心が伝わる。
溢れるものを抑えながらも堪えきれずつたう、震える指先。
すべてを奪うように、唇だけではあき足らず顔に彷徨う唇。
熱く切なげに漏れる吐息。
(ま、……いっか…)
自分の身体も徐々に熱くなるのを自覚して、恵梨は鷹通を誘うように抱きしめ返した。
その行為に更に情欲を刺激されたのか、鷹通の口から甘い吐息と共に言葉が漏れた。
「………神子……」
「な、詩紋、あれって人じゃねーか?」
何も恐れることなく暗闇の中をざかざかと歩いていたイノリが、急に立ち止まって後ろを振り返った。
イノリの指差す方向をじっと目を凝らして見ていた詩紋も、それがうずくまる人影であると気付いて彼の顔を見つめ返した。
「こんな時間に……人? ………」
不信を隠し切れない詩紋とは裏腹に、ここに着いてから益々絶好調のイノリは警戒心とは無縁の表情で腕を組んだ。
「具合でも悪くなったのかもしれないぞ。
………おれ、ちょっと見てくる」
「あっ、待ってよ、イノリくんっ」
詩紋が止めた時は、既にイノリは人影に駆け寄っていた。
「もう……」
イノリの突発的な行動には慣れているが、時と場所を考えて欲しいと詩紋は内心ため息をつきながらも彼の後を追う。
「イノリくん」
詩紋がそこに駆けつけたとき、イノリはうずくまる人を気遣って背中を撫でている最中であった。
「よう。やっぱりこの人、具合が悪いみたいだぜ」
柔らかそうな栗色の髪が腰にまで届きそうなくらいに長い。
淡い色のソフトスーツに身を包んだ二十四、五ぐらいの女性が、声を聞いて僅かに俯いた顔をこちらへ向けた。
夜目にも青ざめた顔色がわかる。
力が入らないのかじかに地面に座り込んで、その女性は弱々しく頭を下げた。
「すいません…。急に気分が悪くなって…」
この湿度では無理もないと、詩紋はそう思った。
イノリはさほど感じてないようであったが、この異常とも思える湿度で彼も少しまいっていたのだ。
「家は近いんですか?」
引け目を感じているのか俯く女性に優しく声をかけ、詩紋はイノリを促して彼女を両脇から支え、近くに見えるお堂の濡れ縁に腰掛けさせた。
二人は気付くことはなかったが、そのお堂は折りしもあの閻魔像を安置している場所であった…。
「ええ。すぐそこなの」
「よしっ、じゃあ送ってくぜ」
「……そうだね…、その方がいいかな……」
何故か不安に思う心を持て余しながら、詩紋も同意する。
「ありがとう。
君たちがいてくれて助かったわ…。本当にありがとう」
やがてその女性を両脇から支え、お堂から遠ざかる三人の影を包み込む靄が濃くなっていった。
数メートルも歩かないうちに、彼らの姿は靄の中に飲み込まれて行き……。
そして完全に見えなくなった。
自然現象か、それとも作為的なものか…。
異常に濃い靄は、まるで生き物のように蠢いて暗い境内を流れていた。
鷹通さん……(T_T)。
う~~ん、どうしましょう(爆)
けど、よく考えたら本当に一日にいろいろ起ってますね~~<他人事~♪
とりあえず、この日に起こる事は天真くんとあかねちゃんの続きを残して全部起こしました(爆笑)
思いがけず怪しい展開に進んだ人もいますが(^^;;) この章、「炎の章」と私、呼んでます。別名「情熱の章」(爆笑)。
前章とどう違うんだ……とか、突っ込まないで下さい…(T_T)