第弐章其ノ二
ひとつ 火の粉を吹きりゃれや…………
「………? 何か、……聞こえませんか?」
皆の話を聞くともなく聞きながら考え事をしていた鷹通は、ふと歌声のようなものを耳にしたような気がして顔を上げた。
もう一度耳を澄ませてみるが、もう何も聞こえてはこない。
恵梨に案内されて事件の現場へ辿り着いた三人は、そこで黒山になっている人だかりを見、すぐにその場に行くことを諦めた。警察の姿は数人しか見られなかったが、TV放映されたばかりなので野次馬がたくさん集まっているのだ。
しかし、そこはSの街。
どこの世界でもそういった夜の繁華街は流行り廃りも早く、人々の興味の移り変わりも速い。
もう数時間もすれば人だかりは薄れ、そして数日のうちには何事もなかったかのようになるだろう。
……この街でもう幾度となく行われてしまった、他の事件と同じように。
そう恵梨が言い、一同は彼女の知り合いの店でしばらく時を過ごすことにしたのだった。
「……? 何も聞こえないけど……?」
詩紋がストローを口に入れたまま上目遣いに鷹通を見上げる。
「そうですか。ならば、私の気のせいでしょう」
鷹通の手には湯気の立つコーヒーカップがある。
もう、三杯目になろうか。
かれこれ一時間半ぐらいはこうしてここにいた。
恵梨の知り合いが経営しているというこの店は、昼は喫茶、夜はスナックのようなアルコールと軽い食事を提供してくれるところで、オーナー兼店長の“秋生さん”は幾分白髪交じりの壮年の男性だった。
二人は古い知り合いらしく、仲睦まじげに会話している。
(……一体、どんな知り合いなんでしょうか…? あまり接点があるようには見えませんが…)
ころころと優しい笑い声を零す恵梨の横顔を盗み見ながら、ふとそんな考えが脳裏をよぎった。
(親子………という感じはしないですね…。年はそれなりなんですが。………となるとやはり恋人?)
秋生の慈しむような瞳を見ると、そうとも思える。
彼のいれた少し苦味の強い珈琲。
香るほのかな匂い。
優しい店の空間は、誰をも公平に受け止めてくれているけれど。
その中でも恵梨は格別のように思えた。
鷹通の視線を感じたのか、恵梨がこちらを振り向き、そして微笑む。
(……私は何を考えているのか。そんなことは…別にどうでも良いことですよね)
深入りしそうになる自分の思考に終止符を打ち、鷹通はこの街に来た本来の目的を思い出した。
「あの…、つかぬ事を聞きますが、最近この辺りで妙な出来事や話を、お聞きになりませんか?」
「妙な事??」
綺麗な眉を怪訝そうに潜めて、恵梨が繰り返した。
「………妙な事って例えばどんな?」
興味深そうに秋生がカウンターの上に身を乗り出し、鷹通を促した。
「“鬼が出た”とかよ!」
先ほどから店の奥にあるゲーム機に夢中になっていたイノリが口を挟む。
かなり旧型の ─── 二昔ぐらい前に流行った、テーブル型のゲーム機に被り付くようにしていたのだが、鷹通の話に反応してがばりっと起き上がった。
「イノリくん、それじゃあわかり難いよ…」
詩紋が仲立ちするが、秋生はイノリの言葉に口の端を少し吊り上げた。
「鬼……か。
ないことも………ないけどね…」
「ホントかっ!」
やりかけのゲームをほったらかして、イノリがカウンターまで飛んできた。
思わぬ展開に詩紋は苦笑いを浮かべ、鷹通は肩に力を入れる。
「イノリくんの思ってる鬼と、秋生さんが言ってる鬼、多分微妙に違うかもしれないけど……」
「詩紋。取りあえず彼の話を聞きましょう」
「私も聞きたいっ」
恵梨も混ざって四人に注目され、秋生は咳払いを一つして、話し始めた。
─── このSって街には表と裏がある。
それは目に見えるものだけじゃなくって見えないものにも……だ。
昔も今も、この街は色里だった。
ここには極楽も……そして地獄もある。
それは今ここで言わなくてもわかるだろう?
………ここからちょっと行った所に寺がある。まぁ、この辺りに勤める者たちには結構有名な寺だ。
そこに閻魔様の像があるんだ。
その昔、流行り病の疱瘡にかかった子供を持つ母親が、この閻魔像に子供を治してくれるよう願をかけた。しかし、閻魔像は母親の願いをかなえてはくれずに、一番上の子供はあっけなく、この世を去ってしまった。
自棄になった母親はこの閻魔像に悪態のかぎりを吐いたんだ。二番目の子供を背負い、さんざ悪態を吐いていた母親はやがて背中が妙に軽くなっているのに気付いた。
二番目の子供は消えていた。
必死であたりを探すものの、見つからない。
そしてふと気がつくと、閻魔像の口から子供が身に付けていた紐がだらりと垂れていたという…。
その閻魔像は子供を食べてしまうという言い伝えがあるんだな。もちろん今も、さ。
そしてやっぱり同じ寺に奪衣婆(だつえば)の像がある。
この奪衣婆っていうのは、三途の川で亡者の衣類を剥ぎ取る鬼婆だ。
人間死んでからは、金持ちも貧乏人も、権力も何も関係なく衣を剥がれるんだ。
色里の女達の尽きせぬ恨みを晴らしてくれるっていうんで、この街の女達の信仰を今も集めている。
─── その閻魔像と奪衣婆が徘徊してる…って言うのが最近の噂さ。
もちろん、俺はそんなの見たことがないから、真偽のほどは分からないが、とにかく、この所起こる子供の行方不明事件も、殺人事件も、全部この閻魔様と奪衣婆のせいだって皆言ってるんだけどね。
秋生はそこまで言って、にんまりと一同を見回した。
「閻魔様の話って私も聞いたことがあるよ。この間行方不明になった子供の靴が、その閻魔像の前に落ちてたんだって」
「閻魔に奪衣婆……ですか」
「鬼婆! やっぱり鬼なのか!?」
「う~ん、イノリくんのイメージとはちょっと違うと思うけど…」
「よしっ。鷹通、その寺に行ってみようぜ。いよいよ鬼と決着だっ!」
秋生の話に煽られたイノリは、拳を握り締め、すっくりと立ち上がる。
「そう逸るものではありません。まだ、私たちの探す“鬼”と同じ……ときまったわけじゃありませんよ」
「キミらは鬼を探しているのか?」
そりゃ難儀な………とでも言いたげな、幾分呆れたような色を交えて秋生が訊ねた。
「いわゆる“鬼”というのとは、ちょっと違うと思います」
詩紋が慌ててフォローを入れた。
現代の人に“鬼”だ、“龍神の神子”だ、“五行の力”だ、などと説明しても分かってもらえるはずなどない。せいぜい不思議な作り話として笑って聞き逃すか、下手をすると精神病院行きにされてしまう。
「僕達が探しているのは、“鬼”のような考えを持った人間です」
鷹通は賢明に口を挟むことなく二人の様子を伺っていた。
それに比べイノリはせっかくの詩紋のフォローに水を差すように、むきになって言い募った。
「何だよっ、詩紋。あいつらなんか人間じゃねぇやっ! それに、鬼の連中じゃなくても、怨霊…ってこともあるだろうがっ。どうすんだよっ、行くのか、行かねぇのか?
お前らが行かなくても、俺は行くからなっ!」
イノリから噴き出す気の勢いに当てられ、鷹通は思わず身を引いた。
(これが今朝ほどまで床に伏せていた者の気………?)
なんとなしに感じられる違和感。
地から噴き上げる氣と同調し、脈打つように燃え上がる。
(……何故? この世界に五行はほとんど存在しないはず……)
しかし、今にも飛び出していかんばかりのイノリに、鷹通は思考を打ち切られた。
「い、イノリくん、落ち着いてよ。誰も行かないなんて言ってないよ」
「イノリ…。ここは詩紋に任せなさい」
「怨霊?!
ねぇ、ねぇ、それって閻魔様とか奪衣婆ってヤツのお化けが出るって事??」
大きな瞳をさらに見開いて、キラキラと好奇心に輝かせながら恵梨が鷹通の顔に己の顔を寄せた。
不意打ちを食らって間近で恵梨の顔を見た鷹通は、一瞬言葉に詰まり、その後真っ赤になって顔を逸らす。
(………似ている………。神子殿に……)
好奇心たっぷりに瞳を輝かし、戸惑いも何もなく真っ直ぐ彼にぶつかってくる…。
鷹通が愛した、そんなあかねの一面に、はからずも面影を重ねてしまう。
(…馬鹿な……。“似ている”などと……私は何を考えて…)
彼女は比類するものなどなき尊き存在。
我ら八葉が愛する、龍神の神子なのだ。
返事をすることもせず、真っ赤になって顔を逸らしてしまった鷹通を、恵梨は悪戯っぽい表情で見つめていた。
取りあえず質問の矛先を詩紋に換え、恵梨は再度問い掛けた。
「ねぇ、詩紋、そうなの??」
「う、うう……ん……、どうなのかな……?
ホントに出るのか出ないのかは、見てみなきゃ分からないよ」
「よしっっ! じゃあ、見に行こうっっ!!」
拳を振り上げて恵梨が叫ぶ。
「えっ? ええっっ!?」
墓穴を掘ったことにようやく気付いた詩紋は、一人乗り気ではしゃぐ恵梨を呆然と見ているしか出来なかった。
「馬鹿言ってるんじゃねぇ。危ねえのに、連れていけっかよっ」
「イノリ~~、ひょっとしてまた“ギュッ”って、して欲しいの?」
「え゛っっ?」
先ほどのことを思い出したのか、真っ赤になって後退りしながらも顔の筋肉が緩んでいるイノリ。
詩紋はその光景を見ても額に汗しつつ、苦笑いするしかない。
イノリにしても詩紋にしても、S二丁目の“おねえさん”方十人にキスされるよりも、恵梨一人の抱擁の方が断然いいに決まっている。
しかし悲しいかな、彼らは友雅ではなく、未だ初心な少年であった。正直にそう言えるはずなどない。
イノリと詩紋が返答出来ないのを見て、恵梨はにんまりと笑った。
「……よしッ。決まったね♪」
まだ惚けたような鷹通の腕を取り、彼女は更に陽気に言い放った。
「んじゃ、そんなに遠くないけど、私、車出すよ」
「え、恵梨さん…?」
急に引き戻された鷹通が上ずった声を上げる。
「だって、遅くなるかもしれないでしょ? もうじき電車も無くなるし、帰りは家まで送るから」
「終電っっ!?」
詩紋が飛び上がって時計を見た。
針はもう11時を差そうとしている。
「藤姫達、心配してるよっ、きっと。電話入れておかなくちゃっ」
「じゃあ、その間に私車回してくるね~。
─── 鷹通、私をおいていっちゃ、いやよ」
チュッ……と、投げキッスを一つ鷹通に送って、恵梨が出ていった。
再度顔を朱に染めて、鷹通は目頭を押さえてため息をつく。
(……なんだか、やっかいな事になってしまいましたね……)
“鷹通…さ…ん”
ほがらかに笑うあかねの表情と、恵梨の笑顔がだぶる。
似ている…と感じてしまうのは、その清らかな気とひたむきさゆえなのか…。
恵梨のことがこんなにも気になるのは、そのせいなのか…?
自問しながら黙り込む鷹通をよそに、やがて電話を終えて戻ってきた詩紋と車を回して戻ってきた恵梨、イノリと秋生との間で何気ない会話が交わされる。
「キミたち………。お達者で……」
「えっ? 秋生さん、それってどういう意味ですかっ??」
「ひっどーいっ、秋生ってばなんてこと言うのよ~っ」
「言葉どおりの意味だよ。
キミたちと、五体満足で再び会える日を切実に願っているよ…」
「…………;;;;」
「? なんだ? 一体何の話だ??」
己の考えに没頭していた鷹通も、そして勇んでいるイノリも、その時、詩紋の顔色が酷く青ざめて、にこやかに振舞っているものの、身体が小刻みに震えていることに気がついていなかった。
何やら心乱れる鷹通さん。
駄目よ~、浮気は(爆笑)>自分の事は棚に上げ……
しかし、思わぬぐらいにオリキャラが出張ってきますね、この章は。
冷静な判断を下せるはずの鷹通さんが揺れているので、この先どーなることでしょう……
でも密かに私、お気に入りだったりする……恵梨ちゃん(爆)