アンジェリークは黄昏ゆく空を見上げながら、湖のほとりに佇んでいた。
精神の教官、ヴィクトールに言われた一言で決心がついたつもりであったが、やはりまだためらいが残っている。
『おまえは優しいからな…。まず先に他人のことを考える。どうすれば人が幸せでいられるか、どうすれば悲しみを取り除けるか…。真っ直ぐに人の心に飛び込んで、優しく包み込む。自分を犠牲にしてまでだ。
だがな、アンジェリーク……。おまえが幸せになることが、その人の幸せになることだって、あるんだぞ。女王になることが、本当におまえの幸せなのか、よく心を見つめてみることだ。
自分の一番大切なものを決して手放しちゃいけない。辛いことを乗り越える、それだけが自分を幸せにする手段だと思っちゃいけないんだ。…時には、自分に素直になることが、自分も、周囲の人々をも幸せにするんだという事を知らなければな。
おまえの瞳はいつも愛する人を映している。ただ一人の人を。俺にも分かる事が、自分で分からぬ筈あるまい?』
精神の教官はそう言って、力強くアンジェリークの背をぽんっと叩いた。
(愛する人……)
その時心の声が、いつも何を言っているのか分からなかった、あの声がはっきりと聞こえた様な気がした。
“愛してるの!”
“クラヴィス様…、愛してるの!”
自分はいつもそう叫びたかった。
恋よりも……、深く激しく、自分が発している愛おしさ。
アンジェリークは全身全霊で彼を求めていた。
それが分かったとき、彼女は女王にはなれないと思った。
(この気持ち……、クラヴィス様に言おう。……このままじゃ女王になんかなれない。いいえ、たとえ受けとめてもらえなくても、私は女王にはならない。あの方の面影を胸に抱いたまま女王になっても、私は万物を愛することなんて出来ないと思う…、きっと…)
そしてそのまま何となく森の湖へ足を向けた。
ジュリアスがぼやいていたので、闇の守護聖が執務室にいないのは分かっている。
アンジェリークは滝の水を両手ですくい、そっと口をつけた。
清々しい鮮烈な感覚とともに、爽快な気分になる。
(私はクラヴィス様のこと、…愛してる、とっても。それがわかっただけでなんだか穏やかな気持ちになれる。もし私の気持ち、受け取ってもらえなくとも、この心は、絶対に変わることないな…。それだけは自信をもっていえるわね…)
闇の守護聖の瞳の色に染まった大気は、アンジェリークを取り巻く。
(逢いたい……。クラヴィス様。この空のような、この上なく優しい瞳をいつまでも見つめていたい…)
それが叶わぬとしても後悔などしない。
怖いのは、つまらぬ自分の言葉で彼を惑わせ、さらに深い闇の中へ導いてしまうこと…、それだけだ。
(でも……、もしも、あの方を愛しているという思いだけでも伝えて…、それがたとえ僅かでも心の支えになるのなら……)
受け入れてもらえなくてもいい、と、そう思う。
(この広い宇宙のどこかに、あの方を必要としている私がいると、分かってもらえれば…それだけで)
そうは思っても、愛すれば、愛して貰いたいのが人の心だ。
アンジェリークには、闇の守護聖が孤独の中に身を置かねばならなかった気持ちが十分理解できた。
胸が痛む。
受け入れてもらえない可能性の方が遙かに高いのである。
「クラヴィス様…」
アンジェリークは祈るように彼の名前を口にした。
ガサリ……、
下草を踏みしめる音がする。
ふと見上げると、そこに闇の守護聖が立っていた。
「アンジェリーク……」
一瞬の間の後、しどろもどろに少女は言った。
「クラヴィス様……あ、あのー、私……今私、ちょうどクラヴィス様のこと考えてて、……その…、ちょっとびっくりしちゃいました。クラヴィス様がいらして…」
夕闇がかなり忍び寄ってきている。
そこに佇む闇の守護聖は、黄昏た空気にとけ込んであまり表情が伺えなかった。
「……そうか……。私も、……少し驚いた」
薄く微笑んだ彼の顔が見えたような気がして、アンジェリークは彼の為だけの極上の微笑みを浮かべる。
「今日は、宮殿にはいらっしゃいませんでしたね。ちょっと、淋しかったな」
彼女は素直にそう言った。
「呼出を受けてな………、しかたなく来たのだ。……少し考え事をしていて、殿上が面倒だった…」
彼らしい……。
アンジェリークはくすっと笑う。
その微笑みが、闇の守護聖の鼓動を激しくする。
「……アンジェリーク…」
「はい?」
「いや、……後で…後で話そう…」
逸りそうになる気持ちを抑え、クラヴィスはそっと横を向いた。
「今宵も……月が美しいだろう。…黄昏がそう語っている」
「本当……、もう星があんなに瞬いてる。紫色の空に……宝石みたいに……」
「良ければ……私の屋敷に来るか? おまえに見せたい物がある。……時間が遅いから無理にとはいわんが……」
「行っていいんですか?」
「良いから言っている」
「じゃあぜひ」
闇の守護聖の屋敷についた頃はすでに美しい月が昇っていた。
アンジェリークは取りあえず彼の部屋に通され、勧められたワインを一口啜った。
部屋の明かりは彼の執務室と同じように極力落としてある。そこここに置かれた蝋燭の明かりがゆらゆらと部屋を照らしている。
ふと、サイドボードの上に輝く光に目を奪われた。
「あれは……?」
「ムーンストーンだ」
月をそのままそこに持ってきたように、それは美しく輝いていた。透き通る透明の光に心が洗われるようだ。
アンジェリークはそばに近付いて覗いてみる。
クラヴィスの水晶球のように、何かが見えるのではないか。
そんな気がした。
「気に入ったのならやろう」
「えっ? 本当に?」
闇の守護聖は微笑みながら頷いた。
優しい微笑み。
この少女が側にいるというだけで、なぜこんな心が安らぐのか…。
クラヴィスはそっと考える。
(その答えは解っている…)
アンジェリークは目をきらきらさせながら、貰ったばかりの美しい宝石を掌に乗せてながめていたが、やがてポケットにそうっとしまった。
「クラヴィス様、ありがうございます」
またしても極上の微笑みが返ってくる。
クラヴィスは身体中が震えてくるのを感じた。
恐れではない。
身体中で少女を求めているのだ。
(抱きしめてしまいたい…。その身体ごと、心も…)
そう考えるのはなんと甘美なことか。
長い間忘れていたこの感情。
しばらくの間、二人は僅かな会話と沈黙を楽しんだ。
苦痛のない他人との時間は、クラヴィスにとってほとんどないに等しい。
「……そろそろか」
やがて、そう呟くとクラヴィスはアンジェリークの手を取った。
無言のまま彼女をバルコニーに導くと、そこから見える湖を指し示した。
「わあぁっ…」
感嘆の声をあげると共に、彼女はそのままその景色に心を奪われた。
月は中空まで昇っていた。
指し示された深い闇色の水面に映る美しい月の姿。
それは以前に見た幻想のようにかそやかに揺らめき、神秘的な様相を見せていた。
「…私は…この風景が好きだ……おまえに…見せてやりたかった」
そして彼は湖面を見つめたまま、一言一言噛みしめるように、言葉を絞り出していった。
「私自身、……この言葉をもう使うことはないと、……そう思っていた。私は……長いこと暗闇の中で生きてきて、これからも生きていくだろうと、そう思ってきたからだ。
だが、……おまえと出会って、おまえの心に触れ、また、おまえが心に触れてきたとき、私はどれほどおまえの事を必要としているのか悟った。…おまえの与えてくれた希望と、そして勇気……。それが私にこの言葉をいう力を与えてくれたのだ」
クラヴィスはアンジェリークの方に向き直ると、そのアメジストの瞳をくゆらせた。
「……アンジェリーク……私はおまえを……愛している。
これからの長い時、そしてすべての役目を終えた時も、おまえと、……おまえとならば共に歩いてゆけるのではないかと……そう思うのだ。
……もう誰も愛すまいと誓った私だった。誰もこの心の扉を開けるものはいないのだと…。しかし、おまえは何の恐れもなく、真っ直ぐに私の心に飛び込んできた。その優しい金色の光は私を……こんな私の心の氷を溶かし、私を導き、希望をよみがえらせてくれた。
もう、おまえがいない時など考えられない……」
アンジェリークは夢でも見たのかと、我を疑った。
(クラヴィス様がわたしを……)
アンジェリークの目に、バルコニーの手すりに置かれた闇の守護聖の手が映る。
それは微かに震えていた。
彼がどれほどの勇気を振り絞ってその言葉を使ったか、そしてそれほど自分の事を大切に思っていてくれているのだと思うと、アンジェリークは胸が詰まって言葉が出てこない。
「私……私……」
「………」
闇の守護聖は少女の言葉を待っていた。
一秒が一時間にも感じられる程の思い。
(この少女の一言を、これほどに恐れているとは……。…この私が…)
そう自嘲気味に思う。
アンジェリークは言いたかった。
『私も愛しています』と…。
しかし、あまりにも嬉しくて、そしてまた、自分がどれだけクラヴィスの愛を待っていたのか知った驚きで、言葉を出すことが難しかった。
「!!」
突然、クラヴィスの腕の中に光の塊が飛び込んで来た。
言葉につまったアンジェリークは、自分の意志を示すために彼の腕の中にその身を委ねたのであった。
「アンジェリーク」
「く、クラヴィス……ま、私……わた…しも…」
闇の守護聖にはそれで十分だった。
彼女は全身で語っている。
潤んだ瞳と、遠慮がちに胸に添えた小さな手。
私も……愛していると。
「アンジェリーク…」
クラヴィスは、彼女の息が止まるほど抱きしめ、その柔らかな髪に顔を埋める。それから添えられた手をそっと握りしめた。
「もう……、この手を二度と離すことはない……。……この命の火が果てようとも……。あの日から、ずっと待っていた。お前のためだけにこの腕は開かれている…」
そして耳元にそっと囁く。
「おまえが欲しい…。心も体も…。今すぐに」
少女の耳を優しく噛むと、クラヴィスは顔を仰向かせ、口づけた。
「もう私は待たなくていいのだから…」
闇の守護聖は少女を抱き上げると、熱く瞳を見つめながら部屋の中へと消えていった。
エピローグ
次の日、聖地は大騒ぎだった。
「ジュリアス様、駄目です…。どこにもいません」
「いったいどこに行ったんだ…」
光の守護聖は頭を抱えた。
女王候補の一人、アンジェリークが昨日から寮に戻っていないとの報を受けて、朝からずっと捜索していたが、昼過ぎになっても見つかる気配はなかった。女王陛下に知られることなく聖地を出られる筈もないから、この聖地のどこかにいることは間違い無いと思われるのだが、隅から隅まで探してもどこにも彼女の姿を見つけることは出来なかった。
(…しかたない。こうなったらあいつに頼むしかないのか…)
ジュリアスは一層険しい面持ちで、またしても殿上していない闇の守護聖の屋敷に向かったのだった。果たして闇の守護聖の水晶球ならば、行方不明のアンジェリークの姿を映すことが出来ると踏んでのことだ。
闇の守護聖の屋敷に着くと、彼はまだ休んでいるという。
「なんだとっ! 平素から職務怠慢であるにも関わらず、こんな大事な時にまで惰眠を貪っていると言うのか、あいつはっ!」
そう叫ぶと、呼んでくるからという執事を押しのけて、勝手知ったる屋敷の中をずかずかと寝室に向かっていった。
「クラヴィス!」
ノックもせずに、ドアが壊れてしまいそうなほど乱暴に開けると、帳の下ろされたベットに近付く。
「寝ている場合ではない! 職務怠慢もいい加減にしろっ!」
引きちぎらんばかりに帳を取り除くと、光の守護聖はそのままその場に凍り付いてしまった。
「クラヴィス様……じゅ、ジュリアス様が……」
「……かまわん…、ほうっておけ…」
そこには朝から探し回っていた顔があった。
どうやら、闇の守護聖が離してくれないらしく、彼女はシーツで前を隠しながら真っ赤になって彼の腕から出ようともがいている。
「あ……あん…じぇりーく……?」
思いもよらない出来事に、惚けたように呟いたジュリアスであった。
「す、すいません。連絡もしないで……外泊して…そのっ……」
「い、いや……無事ならいい…」
この場合無事といっていいものかジュリアスは迷ったが、急に顔を朱に染めて帳から手を離した。
「し、失礼する」
「……何も言わないのか?」
クラヴィスの声が追いかける。
それに答えぬまま、光の守護聖は部屋を出た。
あれほど満ち足りて、穏やかな闇の守護聖の顔をみたのは初めてだった。いや、聖地に来た頃、もしかしたら見たことがあるのかもしれないが、余りにも長い時間が流れ、思い出せない。
(それも、良いかもしれぬ…)
ジュリアスは自分でも訳が分からぬが、どうしても彼を責める気にならず、そう呟いた。
「いいんですか? クラヴィス様…」
「これもいい修業だ……」
アンジェリークは笑いながら、『なんの?』と聞きたい気持ちを必死でこらえていた。
…闇は真の安息を得た。これから夜に満ちるサクリアは、穏やかな優しい愛とさらに深い安らぎで包まれているに違いない。
…TO BE CONTINUED FOREVER
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