序章
─── 六月十日。
『明日、神泉苑で決着を……』
アクラムの言葉に私と八葉のみんな、そして藤姫が神泉苑に集った。
その日で全てが終わるはずだった。
京に平和が戻るのか、それとも恐怖の支配が始まるのか。
どちらにしてもここで一つの終焉を迎え、何らかの新たな日々が始まる。
私はそう思い、決意も新たにここへ来たのだけれど…。
………まさかこんな日々が来るなんて、予想もしてなかった。───
「なぜだ。なぜ天はおまえに味方する。
─── 天意は我でなく、おまえにあると言うのか…」
ランを媒体に巫せた黒麒麟はあかね、泰明、頼久に破れ、今一歩の所で封印かなわずに散れた。
敗北の屈辱に身を焼かれながら、アクラムはそれでもまだ闘志を失わずにあかねらを見据える。
「まだだ………。まだ我は破れておらぬ」
「アクラム様っ!」
シリンの命をかけた制止ももちろん、届くはずもなかった。
未だ記憶を取り戻すことがかなわず、己を蝕む黒い力に苦しめられるランから溢れ出す瘴気を身の内に取りこみながら、アクラムは泉の上にひずむ時空の綻びにふと、気付いたのだった。
その時空の綻びを見た瞬間、アクラムは急に態度を変え、それに魂を奪われてしまったかのように見入る。
「あれは…神子のいた世界………。…………なるほどな…」
危機の中にありながら、余裕の笑みさえ上らせる。
「シリン、退け」
アクラムは静かに言い放つと、掌から生み出した気のかたまりをあかね目掛けて解き放つ。
「!!」
「神子殿っ!」
寸での所で、ごく近くにいた頼久があかねを押し倒し事無きを得たが、皆がアクラムに注意を戻した時、彼はすでに行動に出ていた。
誰もが最後の悪足掻きだと思っていた。
吹き出す黒龍の瘴気も竜神の力、また今のあかねと八葉の力を合わせれば退けることが出来る。
「アクラム様っ!?」
突然彼に腕を引かれたシリンの上げた声が、何故かあかねの耳に残った。
「蘭っっ!!」
僅かな隙に蘭を奪い去られた天真の声。
「後はない……。無駄な事はするな」
こんな時にも冷静さを欠かない泰明の声を聞いても、あかねはアクラムの行動を理解するまでに少しの時を要した。
アクラムは時空の歪みの前に佇んでいた。
先程までの焦りはもう跡形もない。
その腕に気を失った蘭を抱き、もう一方の手でシリンの腕を掴んでいる。
薄く口の端に笑みを浮かべたアクラムは、ゆっくりと歪みの方へ後退していった。
「天はまだ………、私に道を示している。
神子よ…。
お前の世界が瘴気に包まれてゆくのは、さぞ趣深かろうな…」
それがこの世界で聞いた、アクラムの最後の言葉だった。
瘴気とともに歪みに踏みこんだ三人は、息をのむ暇もない間に消えていく。
「アクラムっっ!!」
ほとんど絶叫に近い叫び声を上げて、あかねの意識はそのまま途切れてしまったのである。
「神子……、大事無いか…?」
重い意識がようやく浮上して来た時、震える泰明の声が聞こえた。
少し前に北山でとけた封印。闘いにのぞむために再度施していたものが、また消えている。
「やす…あ…き…さ……ん」
左手にぎゅっと圧力がこもる。
「泰明はお前が目覚めるまでずっと手を握ってたんだぜ。
……いくら言っても離そうとしねえ……まったく」
声のした方をみると、そこには天真、詩紋、頼久、そして藤姫の姿も見える。
「他のみんなもあっちにいるよ? ねえ、あかねちゃん、大丈夫?」
詩紋が袂でそっと目尻をぬぐった。
人声が聞こえたのか、やがて御簾の向こうから残りの八葉らが入室してくる。
たちまちのうちに母屋は人の気配で一杯になってしまった。
「………今は…夜……?」
「そうですわ。昼間の神泉苑で神子様がお倒れになってから、まだ半日程しか暮れておりません」
藤姫は震えながらぎゅっと目を瞑った。
安堵と不安のための震えが、神子が目覚めてからも止まらない。
(これは予兆? 新たなる闘いの………。それとも新たな苦渋の始まりなのでしょうか?)
「……いかなく…ちゃ……。アクラムが………」
「神子っっ」
動かぬ身体を無理矢理起こした矢先、握られた手を引っ張るようにして泰明に引きとめられる。
「まだ、だめだ。もう少し休め」
「でも……」
尚も起きあがろうとしたあかねを、泰明は両肩を抑えて褥に横たえた。
「おまえは早計すぎる。………今は……休め」
そう言い捨てると、おもむろに立ち上がり部屋を出ていった。
「泰明さん……」
ぽろり…と、大粒の涙が零れる。
(どうしてこんなことになってしまったの…?)
自問自答してももう遅い。
後悔だけが次からこみ上げてきて、色を無くした頬に零れる涙が止まらない。
「私が………黒麒麟をちゃんと封印してれば……」
「それは違いますっ! 神子殿は立派に闘っておられました。私の力が及ばずに……。申し訳ございません」
囁くほどの掠れ声をしっかり聞き留め、頼久が即座に否定した。
「まったく……、あかねも頼久もいいかげんにしろよ。
終わったことをぐちぐち考えるなんざ、あかねらしくねぇぞ」
「でも……」
「ひとまず京から鬼の脅威は去った。─── その後のことは後のことだ」
「そうだよあかねちゃん。泣かないで…。
なんとか僕達の世界へ戻る方法を考えようよ。アクラムがいなくなったから、ひょっとして別の方法から現代へ帰れるかもしれないよ?」
「アクラムをほっとくつもりはさらさらねえ。
どこまでも追いかけて蘭を……、蘭を絶対に取り戻す」
あかねははっとして二人の顔を見比べる。
現代に家族がいるのはあかねだけではない。
詩紋も、天真も、あかねと同じように現代の家族がアクラムの魔手の危機に晒されているのだ。
自分の力不足が原因でこのような事になってしまったからといってただ自分を責めているだけでは何も解決しないのだ。現代の誰も、救うことはできなくなってしまう。
しかし果たしてあかねが現代に行けたとしても、何か出来ることがあるのだろうか?
この世界と同じように龍神はあかねに力を貸してくれるのだろうか?
(龍神様に聞いてみるしかない……)
「今……出来ることからやるしかないよね……」
「そうだよ」
「そうだ。今、お前がやるべきことは少し休むこと。そんな身体じゃどこにも行けねーぞ」
「……わかった。
─── 今日はみんな本当にありがとう。みんながいなかったらここまでこれなかった。後は…ゆっくり休んで…。私も、少し休みます」
「御礼を言うのはわたくしどものほうですわ。
─── 京から鬼の穢れを退けていただき、本当にありがとうございます。
まずは神子様、ごゆっくりお休みあそばせ。お話はそれからに致しましょう」
「うん。じゃ、お休みなさい」
皆それぞれ、あかねに言葉をかけると部屋を出ていった。
最後まで腰をあげなかった頼久も、藤姫に促され、しぶしぶ部屋を出て行く。
ようやく一人になったあかねはもう自分の対に人の気配がなくなったのを再度確認すると、ゆっくりと起きあがった。
「これで終わりだと……、決着をつけようって……言ったのに…」
アクラムが嘘をついたわけじゃないのは解っている。ギリギリの土壇場で自分に出来る道を探しただけだ。例えそれが私達にとって最悪の道であっても…。
何が何でも現代に戻らなければ。
(……でも)
「………龍神様……」
自分の中の意識を一点に集中する。
泰明に教わった呼吸法で身体中の全神経と頭の中のイメージをシンクロさせて……。
─── “シャラーン…”
聞き覚えのある柔らかな鈴の音。
ふっと意識が闇に溶け、気が付くとあかねは虚空の中に一人漂っていた。
「龍神様…」
『神子』
白く輝く光球がふわっと目の前に浮かび、いつもの呼び声が、今度は答える側としてそこにいるのが感じられる。
「龍神様っ、アクラムが…、アクラムが…」
『わかっている』
言葉と共に白球の輝きが淡くなり、息をするようにまた強く輝く。それ自体が生きているかのようにやわやわと明滅を繰り返す。
『あの時空の歪みはまだ閉じられていない。あの鬼を追いかけてゆくことは出来る。だが神子よ………』
白球はゆっくりと、しかし確実にその大きさを増していき、次第にあかねが見上げる程になった。
その輝きの明滅が一定の形を取り始め…。
『今のままではあの鬼と闘う術はない…』
「えっ!? それってどういう事ですか? …もう、龍神様は力を貸してくれないって…、そういう意味なんでしょうか?」
あかねが不安に思っていた事。
龍神はこの世界の守り神であって、この世界から危機が去った今、あかねに力を貸してはくれないのではないか……、そう思っていた。
悲しげに眉を寄せたあかねの前で、輝きはやがて人の形となってゆく。
(でも、もしも竜神様が力を貸してくれなくても、私はいかなくちゃ…、守らなくちゃ。だってアクラムが現代に行ってしまったのって、やっぱり私のせいだよね…)
白銀の髪が闇一杯に流れ、すっかり人の形を持った龍神は細いネコのような瞳孔であかねを見下ろした。
彼と対峙したあかねは、彼が何も身につけていないのに気付き、真っ赤になって目をそらす。たくましい肉体は、その纏う神々しいオーラ以外は人間のものとなんら変わりなかったからだ。
『私はお前に力など貸してはいない。すべてはおまえの力だ、神子よ』
「えっ? だって…」
『私はただ導いただけだ。守ってもらったのは私のほうだ…』
「…それなら、アクラムと闘う術はないって、どういう…」
『神子は早急なのだな…』
龍神は僅かに微笑を湛えた。
あかねは羞恥の余り彼の顔を見ていなかったので解らなかったが、その瞳に優しい色が灯る。
(泰明さんと……おんなじようなこと言う…)
ふいに泰明の顔が脳裏に浮かんだ。
はにかんで笑顔を返す泰明…。
あかねの一番好きな笑顔だった。
(現代に戻るってことは、もう泰明さんと会えなくなるって事…)
心が引き裂かれるように辛い。
辛いけれど…、自分のわがままのためにここに残ることなんて、そんなこと出来ない。
どんなに苦しくとも……だ。
あかねの苦しげな表情を見て、龍神は目を細める。
『今まで、神子は五行相克の理を使い、八葉の力を導き、龍脈の力を引き出していた。だが、今からゆく世界では、龍脈の力を引き出すことはかなわぬ』
あかねの目の前に立った龍神は、そっとあかねの腰を引き寄せた。
「!!」
何時の間にか、あかねも一糸纏わぬ姿になっていた。
首筋に唇の感触がし、ひんやりとした手が胸を優しく包む。
「あっ、やっ」
何故か身動きが取れない。
急激に眠いような痺れるような感覚が襲い、余りにも甘美な誘惑に身体がその愛撫を求めて逃れようとはしなかったのである。
『これからは五行相生の理を使い、神子が五行を生み出すのだ。
─── その為に我と交わり、神子の持つ性質を変える』
(えっ!? 交わる…っ、そんなっ、泰明さんっっ)
異を唱えることもかなわず、あっと言う間にあかねの意識は快楽の波に飲まれていった。
「……神子?」
ふとあかねの呼ぶ声が聞こえたような気がして、泰明は闇の中、見えない三条邸の方向に目を凝らした。
「……気のせいか……?」
何か腑に落ちないが、あかねの気は確かに感じられる。
僅かに乱れたような気がするが、それもさほど大した揺らぎではない。
昼間の闘いの場、神泉苑のひずみを調べていた彼は、やがて心に疑問を抱きながらももとの作業に専念していった。
無謀にも連載開始してしまいました。
龍神と交わるあかね…。泰明さんどーするの~~(^^;;)
次回第壱章からは現代に舞台が移ります