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─── 心……… 感情…───
それが一体どういうものなのか、理解することが出来ない。
考えることと、心があるというのは別だ。
考えるというのは、物事を理解する手段だ。
“ならば、考えても分からないものは如何する…………?”
その時、誰かが私の頭の中に囁きかけてきた。
天狗でもない。
お師匠でもない。
ひっそりと呟くかのようなその声は、確かに私の中から聞こえてきたような気がして…。
そういえば、このところ考えても分からずに思考を中断することが多くなっているような気がする。
今までそんなことは無かった。
…………そうだ。……神子にあってから………。
こうして共に歩くようになってからだ………。
「……うん。分かった。
もういいよ、ごめんね、泰明さん」
神子がにっこりと笑ってそう言った。
もう少し。
もう少しで何かが見えてきそうなのに…。
「神子……?」
私はもう訳が分からなくなってしまった。
先ほどまであんなに激昂して私に感情があると説いていたのに、一瞬の間に彼女は鮮やかな笑顔を見せる。
「泰明さんがお師匠様の術で創られたことも、泰明さんが自分のこと『人じゃない』って言うことも、ちゃんと、分かったよ」
そうだ。
……………私は術で創られた、人ならぬ身だ。
人では……ない………………。
それは分かりきっているはずなのに、なぜこれほどに胸が痛む…?
なぜ今、切り裂かれるような痛みを感じているのだ…?
しかし………………これでいい…。
「…………………そうか」
自然の理には逆らえぬ。
確かに私は人ではないのだから…。
けれど神子は当然のように、にっこりと振りかえって付け加えた。
「それからね、泰明さんが自分のこと『人じゃない』って思ってても、私は泰明さんの事『人だ』って思ってるから」
「なっ!?」
「それなら別に“問題ない”でしょ?」
も、問題ない…だと…?
私はしばらく開いたままの口を閉じることも出来ずに、神子の顔を見つめ続けていた。
何が嬉しいのか神子はにこにことこっちを見返してきて、その笑顔があまりにも眩しくて透明で、私は心の臓が壊れてしまうほどにドキドキと脈打つのを自覚していた。
私の身体が、思考とはまったく関係なく動き出してしまいそうで、ギュッと手を握った瞬間に我に返る。
「も、問題ない訳がないだろう。
私は『人でない』と思っているから人でない訳ではない。事実だからそう言っているまでだっ」
「はいはい、分かってます」
「分かっていないっ」
「いいって、いいって、もう帰ろう?
ここに来る目的はあの、天狗さんに会うためだったんでしょ?」
「そうだ。………だが、」
「火之御子社に寄り道して帰ろう? まだ日が暮れるまでに時間があるし、泰明さんがいれば私を守ってくれる……。そうでしょう?」
「もちろんだ」
「よ~し、決定っっ」
あれよあれよという間に神子はさっと私の手を取り、来た道を戻って行く。
……上手く言い含められたような気もするが、上機嫌で私の手を引きながら山道を下る彼女を見ているうちに、こんなふうに私を振りまわす神子との時間が不快ではないと、いやむしろそういう風にしていたいと私は望んでいる、そんな答えに辿り付いた。
「神子…」
呟いた言葉に、不思議そうに振り向いた彼女の顔を目にして、何故かすっと肩の力が抜けていく自分がとても自然で、…心地よかった。
火之御子社。
ここは糺の森と並んで清浄な気を巡らせる神域だった。
けれどやはりここにも穢れは忍び寄っている。
鳥居のある泉のそばまで来た時、神子に引き寄せられるようにして集まりつつあった怨霊の気が、一気に実体化して私達の前に立ち塞がった。
「神子、気をつけろ」
「はい」
いつでも呪を唱えられる体勢で神子と怨霊の間に立ち塞がる。
ちらりと目に映った彼女の表情に不安を見付けた。
そんな顔は、神子に似合わぬ。
「問題ない」
そう。
…神子には指一本触れさせぬ。
私が、神子を守るっ。
かの怨霊の属性は火。
対する私は土。
隣り合う属性は互いに干渉しないから、単純に力が上の方が強いはず。
そして私は今、例え苦手とする属性にすらも勝てる気がする。
“行くっ!”
どのような敵にでも勝てる。
神子を守るためならばっ。
組んだ指から、全身から。
一方向に向けて解き放つ気弾は、自分でも驚くほどに強大な力となって怨霊を打ち叩く。
続けざまに唱える呪も、一言一言に宿る気が、膨れ上がる。
「……呪符退魔!」
自分でも思ってもない程あっさりと片付いた。
ほっと肩の力を抜く私に、神子が頬を膨らませる。
「封印しようと思ってたのに~~」
「ならば、初めからそう言え」
そう咎めながらも、そんなふうに言われることは分かっていたような気がする。
怨霊にすら慈悲をかける…。
それが、私の守る“龍神の神子”だったから。
「は~~い」
あっさりと言い放った私の言葉にもめげることなく、明るい応えが戻ってくる。
……私が望んでいるもの…。
こんなふうに何気なく交わす、言葉。
私が人であろうとなかろうと、そんなことは些細な事だ ─── とでもいうように、あんな出来事があった後でも神子の態度は変わらない。
嬉しい…。
そう、私は確かに嬉しいのだろう。
そして切ない…。
いつまでもこのままの時を過ごしていたくて。
いつまでも、このまま神子を近くに感じていたくて…。
「あ、……あの……、えっと…」
そのままじっと見つめていたら、なんとなく神子はそわそわしてきて、じりじりと後退りし始めた。
神子……?
彼女のすぐ後ろには、池があった。
その池の縁には大きめの岩で囲いがしてある。
「っあ!? ─── きゃあぁっ!」
「神子っ!!」
─── ばしゃぁぁぁんっ!………
一瞬、私が手を差し伸べるよりも早く、神子の身体は宙に浮き、池の中に倒れこむ。
そして続けざまに私も、彼女を追うようにして池の中に飛び込んでしまった。
「大丈夫か……?」
池は、全く深くなどなかった。
座りこんだ神子の胸の下ぐらいまでしか水はなく、けれど私も神子も、倒れこんだ衝撃の水飛沫で頭の先までずぶ濡れだ。
頬にぺったりと張り付いた茜色の髪を指で払いのけながら、神子が私を見る。
前髪からポタポタと落ちる滴。
深く澄んだ瞳に映る、私…。
「ひぇっ!?」
ようやく現状に気付いたらしい神子が、甲高い声を上げた。
「怪我はないか?」
そう声をかけてみたが、何やら混乱しているらしい彼女の応えはない。
瞬時に頬を朱に染め、口を意味も無くぱくぱくと開いたり閉じたりしている。
その時、一際大きな水滴が神子の顎を伝い、胸元にポタリと落ちた。
僅かに露出した白い肌の上を珠のような露がすべり降りてゆく。
………?
これは…………?
衣の袷に消えた滴の行方を追うかのように視線が神子の胸に落ちる。
しっとりと濡れた衣は身体に張り付いて、神子のなだらかな胸の線をはっきりと描き出していた。
そのまま視線を滑らせ、下半身を見ると………。
こ、これではまるで…。
“情を交わしているような!?”
例え私がそういう行為で造られたモノでないとはいえ、「それ」を知らないという訳ではない。
否、むしろ雅やかな宮中の裏側で行われている生々しい男女の「それ」を、同じ裏方である自分達のようなものが目にしないことなどありはしないのだ。取り澄ました貴族やら女房やらが、己の局や暗がりに引きこもって繰り広げる痴態など、嫌というほど見てきた。
ただそれが、私にとって興味を引くものでなかった、どうでもよいものだっただけだ。
しかし今は………。
こんなにも胸が鐘を打つ。
身体の中心が熱くなる。
その濡れた衣に覆われた肌に触れてみたくて、指が疼く。
胸元を伝って消えた滴の行く先を目にしたくて、どうしようもなく喉が乾いてくる。
やけに大きく聞こえる、神子の息を付く音。
五感に感じる確かな神子の存在…。
??
─── 手の中に残る、確かな神子の暖かさ…。
そして私は、今朝方見た、『夢』を思い出した。
足首からふくらはぎ、太ももへ……伝い上る唇。
熱い吐息を耳にした私はゆっくりと顔を上げ、突き上げてくる望みを口にした。
『お前が欲しい………。ダメか…?』
んな……………。
思い出された夢の内容は、私の思考も動きも止めた。
まるで本当の人間のように愛しい者の身体を求める夢。
私の穢れ、秘められて自分自身も気付かなかった欲望を暴き立てた……夢。
─── 愛しい者……。
私は、今確かにそう思った。
では私が今まで感じたことは…?
ふいに飛びこんで来た彼女に胸を高鳴らせたり、神子をこの腕に抱いて慰めてやりたいと思ったことや、いつまでもその瞳を見ていたいと思ったこと、彼女と過ごす時間に安堵を覚えたことは……………。
私が神子を愛しんでいた証しだと……?
─── 私では…教えられぬものがある。
人ならぬ身のお前が、人になるための最後にして最大の封印………
それは ───
“それは……?”
─── 心
“………心…”
─── 怒り、哀れみ、恐怖、楽しみ、喜び、痛みを感じ、そして……愛する。
“愛する…”
─── そうだ。愛しいという気持ちを知ったときこそ…、その時こそ………おまえが本当の人になれる時だ ───
お師匠様………。
私達はしばらくの間、見つめ合ったまま動かなかった。
そしてようやく私が「このままでは神子が風邪をひく」と気付くまで、そのままの格好で池に浸かっていたのだった。
「と、とにかく、池から上がる」
このままでは本当に神子が風邪をひいてしまう。
神子を抱き上げ、池から上がる。
本当はそこで神子を下ろさなければいけないのだろうが、私はどうしてもやっと手に入れたぬくもりを逃したくはなかった。
そのまま火之御子社を出、帰路を急ぐと、途中神子が何度も「自分で歩く」と言い張ったが、もう少しだけ…と自分に言い聞かせているうちに、とうとう神泉苑まできてしまったのだ。
そこまで来て、さすがに私も腕が痺れてきた。
しぶしぶ神子を下ろすと、かなり紅かった頬が少しだけ元に戻った。
「大丈夫か?」
「それは私のセリフだよ? 重かったでしょう?
怪我とかもしてなかったから、歩いても大丈夫だったのに…」
「いや……。確かに重かったが、私がお前を離したくなかったのだ」
そうだ。
離したくなかった。
このままずっと、この腕の中に………。
いや、今はこれ以上望むまい。
まずは鬼を排除し、八葉の務めを果たす。
そう、それが終わったならば………。
「何をしている。早く帰って着替えないと体調を崩すぞ」
気配がついてこないのを感じて振り返ると、滴に濡れた身体が夕日に映えて。
夕日であるというのに、今まさに露の中から生まれいでたかのような朝露の煌きを宿した神子が目に映った。
神子がそこにいる……。
それが嬉しい。
「はぁ~~い。今、行くよ」
零れるような微笑みを浮かべながら、神子が私の方へ走ってきた。
真っ直ぐに、私の方へ…。
・・・Fin
泰明編、随分と長くなっちゃいました。
だって、泰明さんがいつまでもくずくずしてるんだもんっっ
ま、一先ず書きたかった部分が出てきた…ってことでよしとしましょう(^^;;)
おんなじ夢をみた(しかもHな…)二人…ってとこだったんですけどね~。
なんだか、随分爽やかに終わっちゃってますわ(汗)