「あかね…」
ピクンとあかねの身体が震えた。
それを見てとった友雅は、それ以上は何も言わずに彼女の隣りに腰掛けると、そのまま海を見つめた。
友雅はあかねがロッジをそっと抜け出すのを見ていた。
少し待ってみても帰ってくる気配がないので探しに行こうか逡巡しているうちに、彼が出て行くのを見咎めて、後を追ったのだった。
……卑怯な事をしている………と、友雅は何とも言えない自己嫌悪を味わったが、隠れながら彼の後をつけてしまう自分の行動が止められない。
…彼は以前からあかねに好意を寄せていると、噂になっていた男だったからだ。
変わらず、静かな入り江の水面には銀の橋がかかっていた。
少し月への橋が短くなったような気がするのは、時間が経って月が低くなったからであろうか?
それを眩しそうに見ながら、友雅は呟いた。
「月橋を渡るるならばいつとても あわでし夜ぞ幾度かぞえじ ───
今宵は月が………とてもきれいだね」
「……?」
詠みかけられた和歌の意味は、掴めるようで掴めない。
会わないのはあかねなのだろうか、それとも友雅?
混乱した頭で、それでもあかねは歌を返す。
「……わたつ海の、波の狭間に頼りなき… あまつそらなる銀の月橋」
「…あかね?」
─── 広い海原の波に漂う頼りなき私の心。
……私の手の届かないところにいるのです。あの、銀色に輝く月の橋は ───
ドクンっと、友雅の胸が鳴った。
何故かあかねが急に手の届かない存在になってしまったような、彼にさえも分からない何かを抱えているようなそんな気がする。
本当は……、出て行くつもりなどなかった。
あかねが彼を好きで、彼もあかねを好きで……。
二人が共に想いあっているのならば、自分の出て行く必要が一体どこにある?
重なったシルエットを目にして、心を切り裂かれながら踵を返した時、友雅の耳に飛び込んできたのはあかねの上げる拒絶と救いを求める声だった…。
手中の珠を愛でるように、大切に大切にしてきた。
大切にしすぎて怖い。
あかねの心が離れてゆく事が…。
しかし、それでも友雅はあかねの意思を尊重したかった。
十以上も年の離れた自分。
いつかあかねには本当に好きな人が出来るのではないかと怖れていた。
自分を選んだのは、一時の気の迷いではないかと。過酷な運命の中で恋に恋しただけではないかと…。
燃えはじめた情熱を抑え込むのはかなりの精神力を必要としたが、そんな苦痛などどうでもいいほどに、あかねを愛していたのだ。
それなのに、いざ彼女を目の前にすると、抑え切れない想いが込み上げる。
─── 抱きしめてしまいたい…。
そして尋ねたい。
自分よりも彼が好きなのか…と。
もう自分には何も想いはないのかと…。
友雅は思わず身体を震わせた。
膝をかかえたあかねの、乱れた胸元に咲く、微かな紅い華。
弾かれたように彼女の腕を取り、力の加減をすることも出来ずにそのまま引き寄せた。
「い、いたいっ!」
腕をねじり上げられたような形で、あかねは悲鳴を上げる。
それでも手は離してもらえず、更にもう一方の手を捉えられた。
「や、友雅、さ、ん、痛い…」
痛みの余り目の縁に滲んだ涙越しに、強張った友雅の顔が見えた。
痛いのは自分のはずなのに、それよりも苦痛を我慢しているような彼の表情。
一言も発さず、ただあかねの顔を苦渋に満ちた表情で見つめている友雅は、─── こんな友雅は、初めてだ。
「あ………」
(表われているのは怒り? それとも恐怖?)
あかねもそれ以上何も言わず、ただ痛みに耐えていた。
今は、耐えることだけが友雅の心を理解できるような気がして…。
手の感覚が痺れて無くなってきた頃、ようやく友雅は力を緩めて下へ下ろした。
「痛かっただろう……? ─── すまない」
優しく自分の前に引き寄せた手首に唇を押し付け、友雅は囁いた。
その言葉でようやく、あかねの瞳から涙がぼろぼろ零れて落ちる。
「悪かった………本当にすまない」
「もう………………」
「…?」
聞き取れない声に友雅は眉をひそめる。
「……いやよ……、こんなの…いや………」
「あかね…?」
「いや、いや、いやっ、いやぁっ!」
取られていた手を振り解いて、小さな握り拳を力任せに友雅の胸にぶつけた。
あかねごときの力では痛みを感じるほどではなかったが、その勢いに、友雅は幾分よろめいたように岩によりかかった。
「なんで? なんで来たの?
抱きしめてもくれないのに、なんで来たのっ!?
もう、いやっ、苦しいのはいやっ、友雅さんを想って、こんなに苦しいのはいやっ!
友雅さんなんて、大っ嫌いっ。
私のこと一人にしてっ、私のこと、子供扱いしてっっ。
好きじゃないなら私のことなんて放っておいて。期待させないで………。
誰か……誰か助けてよ…、忘れさせてよ…」
興奮して、友雅に拳を打ちつけながら叫んでいたあかねは、徐々にその想いに捕われていつしか弱々しく呟いていた。
涙が堰を切ったように溢れ、止まらない。
下を向いて嗚咽を堪えるあかねを、友雅は困惑した顔で見つめていた。
女性に関しては手馴れているはずの友雅が、この自分よりも十以上年の離れた少女 ─── いや、今はもう開花しつつある、女性と呼べる彼女に成す術も無く戸惑うばかりだった。
彼らしくなく、かける言葉も見つからず、抱き寄せるきっかけもつかめないまま、友雅はただただあかねを見つめるばかりであった。
「……………ごめんなさい。………助けてくれたのに。
─── ありがとう、友雅さん」
先程決心したばかりだと言うのに………。
あかねは自分の余りの子供っぽさに情けなくなった。
(彼の為にも………さよならしよう……って、そう決めたのに……)
これ程深く、自分の心に友雅が住みついているとは気がつかなかった。
心が千々に千切れそうだ。
…いや、虚ろになってゆくような…。
あかねはきゅっと小さな拳を握り締めると、必死で笑顔を作る。
まだ涙は頬に零れたままだったが、自分でもきっと、上手く微笑むことが出来たと……そう思う。
「もう……私は大丈夫。……大丈夫だから、いいよ。もう戻って…。きっとみんな友雅さんの姿が見えなくて心配してる…」
「みんな…?」
言葉が何か引っ掛かって、友雅は眉をひそめた。
「私も………もう少しこの辺を散歩してから戻る。…………一緒に戻ったらまずいでしょ?」
「君をこのままここに残して私に去れと………そう言うのかい?」
「でも私と一緒に戻ったらきっと、みんなに………疑われるから……」
友雅はすぐに彼女の危惧に続く想いに気付いた。
(君は……こんなにも……)
あまりにも逢う時間が少なかったからだろうか…。
あかねは少し逢わない間に信じられないぐらい大人びていた。
彼女を遠く感じたのも当たり前だ。
(ずっと心を隠してきたのか…? 私の重荷にならないように……)
あかねを避けてきたのは本当の事だ。
彼女に考える時間を与えたかった。
元の世界に戻って、相応の年の人達に囲まれて…。
それでも尚、自分を求めてくれるのなら、彼にもう躊躇する理由などない。
例え真実は二人の情熱が永遠のものでないとしても、最初から諦めてしまえば創り出そうとする永遠も夢物語でしかなくなってしまうのだから。
微かに見え隠れする嫉妬心と、必死で自分の事を気遣ってくれるその心…。
─── いとおしい……。
あらためてそう思う。
桃源郷に輝く月に架かる橋などないと思っていたが、今は確かに見える。
銀色に浮かび上がる細い橋が。
「あかね……」
名を呼びながら、友雅は彼女の腰を引き寄せる。
あかねはびくんっと身体を震わせて微かに抵抗を試みたが、思ったよりも強い力で抱き寄せられて硬直した。
それに構わずすっぽりと腕の中に包み込むと、乱れた衣服をかき寄せながら優しく背中を撫でる。
あかねの身体の強張りが徐々に抜け、全てを預けるかのように友雅の胸に凭れかかってきた。
(…………こんな風に優しくされたら……私……)
自分の心に反して下した決心など、淡雪のようにあっという間に消え去ってしまう。
「私の……月の姫君…」
友雅が呟く。
あかねはゆっくりと顔を上げた。
その瞳に悲しげな色を湛えて…。
「私は……月の姫なんかじゃない。……友雅さんにはふさわしくない…もん。そんな風に呼ばないで…」
「私の腕の中にいるのが…………いやなのかい?」
じっと、あかねを見つめる瞳。
少し青みを帯びた瞳が、今は月の光の中で深く昏く煌きを湛えて覗き込む。
口の端に、微かに微笑を浮かべながら見つめる友雅の瞳の中に、吸い込まれていきそうで………怖い。自分の心に正直になってしまいそうで………。
耐え切れなくて、ふっと目を逸らした。
「そう………よ。いやなの、もういやになっちゃったの。
─── だから無理して私のことかまってくれなくても……っ!?」
皆まで言うことは出来なかった。
彼の唇が素早くあかねのそれを奪い、有無を言わさず侵入してきた。
「んっ……」
怯えるあかねの舌をゆっくりと絡めとり、吸い上げながらも口腔内を這い回る。
ぬらっとした感覚が呼び起こす官能を刻み付けるように、優しく、けれど強く友雅の舌は愛撫する。
何もかも、白く翳んでしまうほどの熱く激しい口付け。
初めての大人のキスに、あかねの身体は力を失い、言葉では伝え切れない友雅の想いを受けてガクガクと震える。
「ぁ…」
やがて唇が離れてゆくと、銀色に輝く糸が二人を未だ繋いでいた。
大きく見開かれた彼女の濡れた瞳に葛藤が浮かぶ。
その色を読みとって、友雅は艶やかな微笑を上らせた。
「もしも私達が京に残っていたならば、私はその君の言葉であっさりと引き下がっていただろうね…。やはり月を手に入れようとしたのは、無謀なことだったのだろうかと…」
力の抜けてしまったあかねの身体を己の膝の上に抱きかかえて、友雅は入り江に視線を向けた。
「君と……、この世界に来て良かったと、本当にそう思う。
この世界は私の知らなかった事を、京にいたのでは決して得ることのできなかった事を教えてくれた。
─── あの銀色に輝く月。
この時代はあの場所に行くことも出来る。
…私達がいるこの“地球”という場所もまた、あの月と同じように宇宙に一つ浮かぶ星であることを、この世界に来て知ることが出来た。
君が月の姫君でなく、この入り江に腕を広げる大地の女神だとしたら、月にいて碧い輝きに心を奪われているのは確かに私なのだろう。
ずっと………思っていた。
君の元に架かる橋はないのだと。
でも今は見えるだろう?
細いけれど、美しい橋が。
それにその光に照らされて、波間に漂う君の心も見る事が出来た…」
「友雅さん…」
再び、口付けるのではないかと思うほどに顔が寄せられ。
触れ合うほんの僅か手前で止まった。
「私は…………怖かったのだよ。君を失ってしまうのではないかと…。
私よりも、君と釣り合いが取れた者がいるのではないかと、この世界に来て、風のように煌きながら過ごす君を縛ることなど、私にはとうてい無理なのではないかと思ってね。
………笑ってくれてもいい。本当の私はこんなにも臆病者なんだよ」
唇に、掠めるようなキスを残して、友雅はあかねを優しく抱きしめた。
友雅の、胸の鼓動が酷く早い。
回された腕が、…………微かに震えている。
互いが互いを思って遠ざかっていたこと。
今はあかねにもはっきりと分かった。
「あかね……、愛しているよ」
掠れた吐息が耳朶に囁かれ、あかねは這い登るゾクリとした感覚に身体を震わせる。
「…ごめんなさい……。やっぱり私、友雅さんを苦しめていたんだよね。私……」
「─── しっ。…もう何も言わないでいい……」
そっとあかねの唇に己の人差し指を当てると、友雅は再びゆっくりと唇を重ねた。
月はもう、波の下に沈んでいた。
入り江に架かる銀の橋はもう見えないけれど、二人の間にもうそれは必要ないだろう。
どんなものも入りこめないほどに、二人の間は縮まったのだから…。
…to be continue
「55555」特別キリ番創作です
……って、もう60000過ぎちゃってるけど…(--;;)
私の中の友雅さん像は、「本当に惚れた女には中々手が出せない」奴です(^^;;)
三十男の純愛……ってとこですかね~(爆)
でも本気であの顔と声で迫られたら、きっと腰砕けるだろうな~~(;;涎;;)
ちなみに和歌は、思いっきり、読み流して下さいっっ(滝汗)