銀色に輝く波頭が繰り返し押し寄せる。
水面に映る月の姿が遥か沖から入り江まで長く延び、海岸から夜空へ、揺らめく橋をかけていた。
「………友雅さんのバカ……」
昼間の熱の残った砂を踏みしめながら、あかねは俯いて独り、渚を歩いていた。
大学のサークルの合宿で訪れた小さな海辺のロッジ。
そのサークルの顧問は他でもない、あかねと共にこの時代へとやってきた友雅その人であった。
龍神のはからいで戸籍、その他現代に彼が生きていた証しが創られていたのである。
その為に、彼の苦労はもっぱら現代の生活習慣等を身につけるだけだった。もっとも順応力のすこぶる高い友雅は、さほどの苦労はしなかったが。
友雅は一人暮しをしながら、大学に職を見つけた。
……そしてそれから三年もの月日が流れていた。
「……もう、嫌いになっちゃったのかな……」
あかねは僅かに涙ぐみながら夜空を仰いだ。
友雅のいる大学に入り、友雅の受け持つ分野の授業を選択し、友雅のいるサークルに入った。
それもこれも皆、彼と一緒にいる時間を増やす為。
高校に通っていた三年間、たまの休日に会うぐらいでほとんどすれ違いの毎日だったのだ。そしてあかねのがようやく友雅のいる大学に入ったにもかかわらず、個人的に会う時間はなぜかますます減っていった。
今回の合宿で少しぐらい彼といられる時間が増えるか……と思ったが、女子学生に大人気の彼が一人でいる時間などほとんどなくて…。
しかし、必要以上に避けられているような感じがするのは、あかねの気のせいなのだろうか?
(友雅さん……)
あかねと友雅の関係は、三年前に友雅と現代に来た時から何の進展もなかった。
休日などには二人で出掛けたりもする。が、京にいた時はあかねが羞恥のあまり声が出なくなるくらい迫ってきていたのに、こちらに来てからはそれがほとんどない。
相変わらず面くらうようなセリフは言っていた……。しかし、ここ最近は手すら握ることもなかった。
甘い口付けを交わしたのは、一体どのくらい前だったろう。
これでは恋人未満だ……とあかねが思うのも無理のないことであった。
あかねにしてみれば、高校を卒業したら彼の元に……と望んでいたのだが、友雅が何もいわないのに自分からそう言うことも出来ない。女性からそんなことを言うなんて、はしたないことだとも思う。
キラキラと打ち寄せる波が濡らす足元が心地よくて、あかねはそっと波を蹴る。
幾つもの輝く宝石が弾け、降り注いだ。
(私よりも綺麗で素敵な人は一杯いる…。こっちの世界に来て、京に比べて女の人もみな開放的で……。京の女の人が本当にお淑やかだったから、私が新鮮に映ったのかも…)
それはずっと不安に思っていたことだった。
京の世界では自分は特別な存在だった。
でも、この世界での自分は何の取り柄もない普通の女の子。
友雅を取り巻く煌びやかな女性達の一人ですらない。
あかねはほうっと溜息をつき、じわりと滲んできた涙を零れるままにまかせた。
もしも、友雅が未だに自分に縛られているのならば、開放してあげるのは自分しかいない。
“君は君のまま、走りつづけていて欲しい。それが君という存在なのだから…”
現代に来て友雅があかねに言った言葉。
その時、その言葉はあかね自身を尊重してくれているのだと思った。
自分を一人の大人の女性として扱ってくれたのだと思った。
あかね自身を認めてくれて、束縛はしない……。
(あの言葉を聞いた時、とっても嬉しかった。……でも今は……)
彼に縛られたかった。
今のように一線を引いたような付き合いしかできないのなら、彼に束縛されて身動きが取れなくなってもいいと、そう思う。そう望んでいる自分がいる。
(……もうきっと友雅さんに私は必要ない。……京にいた時とは違う…。私はもう龍神の神子じゃないし、友雅さんも八葉じゃない…)
あかねは胸を刺す鋭い痛みに耐えながら、決心した。
(…さよなら……しよう……。もうこれ以上友雅さんを縛りたくない。現代に来た時、あの人が私自身を尊重してくれたように、私も友雅さんの未来を解放してあげなくちゃ…)
きっともう本気で好きになる人は現れないだろう。
こんなに愛する人など出来るはずがない。
ただ好きになる人なら幾らでも出来るだろうけど、生命すら失ってもいいと……、そう思える人などそうそう巡り逢えることなどないのだから。
サークルに入ってからも、この合宿に来てからも、友雅の人気は嫌というほど見せ付けられてきた。
取り巻きの美女達にそつなく笑顔で対応する友雅を見ているのがいやで、ロッジを飛び出して来たけれど、行く当てなどもちろんなく、何をすることもない。ただ誰もいない砂浜をさ迷い歩いているだけだ。
あかねは立ち止まり、海にかかる銀の橋を見つめた。
橋はゆらゆらと揺れながらも、確かに存在する。
「……月…の…」
“月の姫君…”
友雅はあかねをそう呼び慣らす。
「私は月の姫なんかじゃない……。ただのあかねだよ。今は友雅さんの方が月…だね」
月はそこに確かにあるけれど、この橋を渡ってすら行き着くことは出来ない。
「最初から私には………手の届かないものだった………のかな…」
あかねは自身の身体を抱きしめると、特別寒い訳でもないのにブルっと身震いした。
「元宮さん」
突然に背後から声がかけられた。
振り向くと同じサークルの二つ上の先輩が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
「安達先輩…」
流れるに任せていた涙を急いで拭い、あかねはいつもの笑顔を作る。
最近は特に作り慣れてしまったその笑顔は、周りの人々に本当の心を見せない。京にいた頃のように、相変わらず人を魅了する優しい笑顔だったが、その端々にあの時にはなかった憂いが漂う。
「いつの間にかいなくなっちゃったんで、探したよ」
「……ちょっと、夜風に当たりたくなっちゃったんです」
あかねの前に立った安達は、人好きのする笑いを浮かべ、そっと彼女の肩に手を乗せた。
ちょっとした仕草だったが、あかねはピクっと身体を引き、無意識のその反応に己自身が驚いて苦笑を浮かべた。
しかし彼はその苦笑に気付くことなく、にこやかに会話を続ける。
「僕も少し散歩したかったんだ。─── ちょっと歩かない?」
口調は柔らかく誘っているわりには、手が容赦なくあかねの肩に回され、半ば押し出すようにそこから連れ出した。
否も応もない。
あかねは仕方なく彼に肩を抱かれたまま、砂浜を歩き出す。
「この前、君に交際を申し込んで断られたけど………、僕は諦めたわけじゃないからね」
「え?」
安達は肩を抱く腕にきゅっと力を込め、海岸を遮る、岬から延びた岩の列を指差した。
「あの岩なら座れそうだよ」
大型船舶も入れそうな大きな入り江。
数件のロッジとペンションの並んだ林と両端の突き出した岬に囲まれて、銀の橋のかかる夜の入り江は凪いでいた。
彼に促されてその崖の影になった大きな岩に腰をおろすと、今まで全然気付かなかったことが視覚と聴覚に捕らえられる。
(…今まで気付かなかったけど、ひょっとしてあの林の所に見える人影……それにそこの岩の窪みにいる人影も……)
微かに響く声は、確かに睦みあう男女が上げるもので………。
(あっ…………)
経験はないものの、知識がないわけではないあかねは、その声の艶めかしさに一気に顔に血が上った。
「あっ、あのっ、あたし……帰りますっ」
勢い良く立ちあがりかけたあかねの腕を、安達は掴んで離さず、しかも力を込めて引き寄せる。
「きゃっ…」
バランスを崩したあかねは、そのまま彼の胸の中に倒れ込んでしまったのだ。
「や、やだっ、ごめんなさい……!?」
離れようとする彼女の身体は、すかさず抱き寄せられ、彼はあかねの耳元に口を寄せて耳朶を口に含み、囁いた。
「………忘れさせてあげるよ…」
「えっ?」
生ぬるい感触が耳を這いまわり、あかねは嫌悪の余りもがいたが、安達の意味深な囁きに一瞬気を取られて彼の顔をまじまじと見つめた。
「わ、…忘れさせる…って………」
「好きな人がいるって……言ってただろう?
それって………橘先生……じゃないの?」
あかねはうろたえた。
互いの立場を、主に友雅の立場を慮って、二人の関係は秘めていたのだ。
それが彼に見透かされていたとなると、あかねは露骨に態度に出ていたに違いない。
「えっ、あ、あの……、」
しかし彼は二人が特別な関係にあるわけでなく、あかねの片思い…と思っているようだった。でも彼の言葉が与えたショックは、あかねの心をグサリと抉り取ってしまう威力があったのだ。
「いいよ。橘先生、いい男だもんな…。女が寄ってくるのも無理ないさ。
けど、相手があの先生なら、僕にもチャンスがあるだろう?
所詮、高嶺の花……だもんな。あの人はきっと、星の数ほどお相手がいるに違いないからさ」
(高嶺の花……………?)
────── “情熱とは桃源郷に輝く月……みたいなものだよ…”
“君は君のままで………”
“月の………姫君…” ──────
頭の中で、友雅の言葉と安達の言葉がぐるぐると渦を巻く。
(私と友雅さんは、最初から距離があったの? 彼の心に近付いたと思ったのは、ただの幻……?)
先ほど、自ずから別れを決意したばかりだとはいえ、他人からはっきりと言われるとその決意が形ばかりのものだと悟ってしまう。
恋して……、焦がれて…。
そつのない表の顔の後に隠された、友雅の孤独な心。
それを癒してあげたいと、彼の胸に暖かな灯かりを点してあげたいと望んでいたのは、ただの自己満足でしかなかったのかと、あかねは呆然とした。
(こんな子供の私が友雅さんと共に未来を歩いていけるなんて、思いあがりもいいところだったかな……)
安達の言葉と己の考えに強い衝撃を受け、そのまま何の抵抗も示さなくなったあかねを見て、彼はそれを承諾のサインと受け取る。
(え? ………)
気が逸れているうちに彼の手は遠慮なくあかねの太ももを撫で上げ、膝上のスカートの裾をたくし上げてゆく。と、薄ら明るい夜の中で白くあかねの脚が浮かび上がった。
「!? ちょっ、先輩っ、やだっっ、何するのっ、やめて!」
突然の彼の行動に、あかねが抗議の声を上げる。しかし彼はそれを無視して岩の上に彼女を押し倒し、胸元をくつろげていった。
遠慮を知らない唇が首筋に吸い付く。
冷えた肌に当たるその余りの熱さに、あかねは恐怖と嫌悪感に身を震わせた。
「いやっ、やめて、やめてってばっ」
声は夜に吸いこまれてゆく。
白いレースに包まれた柔らかそうな胸が夜気に晒され、その余りの美しさに安達は欲望を煽られてごくんっと息を飲みこんだ。
「元宮さん……。…あ、あか…ね…」
彼が名を呼び、いきなり胸を揉み始める。
暴れるあかねの身体を自身の身体で押さえつけ、彼は巧みにあかねの足の間にその身体を滑りこませた。
「いやっ、いやだっ、助けて、─── 友雅さんっ!」
もがいているうちに大きくスカートが捲れ上がり、痛いほどに揉まれる胸を覆う布がずれてゆく。そのあられもない姿が、安達の行動を殊更エスカレートさせていった。
「いやぁっっ」
「…友雅…って、橘先生の名前だろ?」
興奮の余り、目を真っ赤に充血させた安達が、余裕たっぷりに囁いた。
「彼に助けを求めても無駄だって、君も分かってるだろ? 彼女でも恋人でもないんだから…」
言葉があかねの胸に刺さる。
何も知らない安達が、そんなふうに思っているのも無理ないが、今のあかねには酷く堪えた。
あかねの傷ついた瞳の色など少しも気付かずに、安達ははみ出した胸の隆起に吸い付き、そこに紅い印を付ける。
「わ、分かってるもんっ。だからって……、やだっ、やめてよ先輩、お願いっ」
「だから、忘れさせてやる、って言ってるだろ?」
体重を使って押さえつけられたあかねの身体は、両手で押し返そうにもどうにもならない。
素早く彼のもう一つの手が下着の上から秘唇に触れてきたが、足を閉じようにも間に彼の身体が入りこんでいるのでそれも出来なかった。
「いやぁっっ!」
あかねはギュッと目を閉じる。
観念などしたくないが、自分だけの力ではこれ以上どうにもならなかった。
ぼろぼろと零れる涙が岩の上に染みをつくっていた。
「─── 何をしている?」
その時、背後から低く響く柔らかな声が響いた。
あかねは耳を疑った。
(そんなはずない…、来てくれるはずない……)
それでもその声はあかねにも安達にも確かに聞き覚えのある声で。
安達は慌てて身体を起こし、あかねは岩の上に縮こまるようにして身体を丸めた。
「何って………、そ、そのー…、やだな、橘先生、野暮なこと言わないでくださいよ」
「野暮なのは君の方じゃないかい?
─── 嫌がる女性を無理矢理に……などと、無粋の極みだよ」
「い、嫌がってる…なんて、そんな事ないよな……? な、元宮?」
安達の問いには答えず、あかねはただ向こうを向いて身体を丸め小さく震えていた。
「……どう見ても嫌がってるようだが?」
声に何か不穏なものが混じり、安達はようやくそれに気付いて後ずさりし始めた。
いつも耳にしている穏やかで優しげな声ではない。
聞くものを震えあがらせるような何かを孕んだ、別人の声だ。
「あ、…えっと……、ぼ、僕は……」
「戻りなさい」
決して大きな声ではなかったが、その声は人を従わせることに慣れた、そして誰も反論出来ない響きを漂わせていて、彼は弾かれたように踵を返すと、何も言わずにロッジの方へと駆け戻っていったのだった。
そしてその場にはあかねと、その声の主 ─── 橘 友雅が残された。