gift for 六堂
「ふぅぅ……」
アンジェリークは、本日何度目かのためいきをついて窓の外を眺めた。
スモルニィに戻って来てから早、半年。
あれから息も付けぬ程色々な出来事があった。
あれからというのはもちろん、女王試験の事であるが、『ぜひ私のそばにいて…』という新女王ロザリアの誘いを断って、アンジェリークは下界に戻って来たのである。
そして…、あの人との出会い、求愛、婚約…。
ちょっと不思議な事も、そして困難なこともあったけれど、婚約中である今は幸せ一杯のはずである。何故黄昏ゆく窓辺で溜息を付かねばならないのか…。
その原因は当然のことながら、婚約者の事であった。
女王試験から戻ったアンジェリークには、後一年、スモルニィでの勉学が残されている。つまり、後一年は結婚出来ず、彼と一緒に暮らすことも出来ない…ということである。両親が婚約を許したのは、それが条件であった。
しかし今、彼女が溜息を付いているのはそんな今さらの事ではない。
「ふぅっ……」
再びの溜息。
横顔を夕日に紅く染め、黄金色の髪を緋色に輝かせながら、恋を知って猛スピードで大人の女性へと変貌をとげつつある彼女は、聖地の某炎の守護聖あたりが見たら速攻で押し倒してしまうだろう程の色香と憂いを漂わせていた。
「……やっぱりあのまま……帰っちゃったのかな…?」
呟く声は未だ少女のままであったが、そのアンバランスな魅力が殊更男性を引きつけているとは夢にも思っていないアンジェリークである。
─── コツン、コツン、コツン……
校舎の廊下を聞き慣れた靴音が近づいてきた。
アンジェリークは慌てて先程までしていた厳めしい、怒った顔を作る。
…そう。彼女はつい先程まで怒っていたのだ。
軋んだ音を立てて、木製の扉が開かれる。
姿を表したのは金の髪と榛色の瞳を持つ、人の良さそうな男性であった。
「おや……? アンジェリーク。まだ帰らないで待っててくれたのか? 遅くなるから待ってなくていいと言ったのに」
数冊のテキストをテーブルの上に置いて、その男性は彼女の元に近づいた。
「…待ってない方が……都合がよかったですか?」
思いがけない言葉に、彼は目を丸くする。
「おいおい、どうしたんだ。アンジェリークらしくないぞ」
いくら言葉を掛けてもこちらを向こうともしない。
どうやら怒っているようであるが、何故怒っているのか分からない。
「何を怒ってるんだ? そんな拗ねてないで、こっちを向いてごらん」
「どうせ私は子供ですっ。つまんないことで拗ねてる子供なんだから」
アンジェリークは目にいっぱい涙を溜めて振り返った。
「少しでもカティスと一緒にいたくて待ってた私より、さっきの黒髪の子の方が大人っぽくてとっても綺麗ですものね、先生っ」
そう言われて、やっと彼はアンジェリークが拗ねている原因に思いあたった。
今日最後の授業が終わった時、生徒の一人に相談事があるので聖堂の裏で待っていると言われ、出掛けていった。その時、一緒に帰ろうと誘いにきたアンジェリークに、先に帰るよう促したのだ。しかもその口実が『仕事が少し残っているから』…であった。
(まずったかな……)
まさかアンジェリークがその生徒と会っている所を目撃するとは夢にも思わない。
カティスは困った顔をして頭をポリポリとかいた。
そう、アンジェリークの婚約者というのが、この男性、カティスであった。
実はこのカティス、今でこそスモルニィの生物教師などをしているが、以前は聖地にいたのだ。しかも守護聖として…。
いろいろな出来事を経て、ようやくこの少女を捕まえることが出来た。
地に降りた、自分だけの天使を。
カティスは目を細め、今にも零れそうな程涙を溜めてこちらを見ている少女を見つめた。
笑顔の少女は本当に愛しくて、抱きしめてしまいそうな程であるが、ちょっと怒った少女も可愛くて愛らしい。
ましてやきもちを焼いているとなると、もみくちゃに抱きしめてそのまま離したくなくなってしまう。
自然に緩んできてしまう口元を一生懸命引き締めながら、彼は真面目な顔でアンジェリークの肩を抱き寄せた。
しかしその仕草さえ、アンジェリークにしてみれば疑わしいことこの上ない。抱きしめて誤魔化してしまおうという男の浅はかさに思えてしまうのだ。
彼のことを信じていない訳ではないが、あの聖堂の裏手で見た二人の姿が目に焼き付き、自分でもどうしようもないくらい哀しみが、怒りがこみ上げてくる。
(どうして、…どうしてあの子と会うって、正直に言ってくれなかったのっ?)
やましい事がないのであれば、真実の事を話したっていいではないか。
いくら自分が子供でも、きちんと理由を話して貰えればここまで怒ることはなかった。
……はずである。
アンジェリークは肩に乗った手から逃れると、拳を握りしめ仁王立ちする。
「もういいのっ、カティス、私に飽きたんでしょっ? 私があんまり子供だから」
堪えきれずに涙がぽろぽろ流れている。
「おいおい…」
思いがけない言葉に、カティスはそれ以上何と言っていいのか分からない。
(…飽きた……って、まだ何も……してないが…)
“飽きた”と言う言葉の微妙な意味合いに思わず苦笑いしてしまう。他の人が聞いたら、勘違いすること間違いなしである。
(しかし……)
カティスは思わずアンジェリークに見とれた。
怒っている彼女も何と魅力的なんだろうか。
怒りの為に紅潮した頬。
涙に潤んでキラキラと輝く、強い意志のこもった瞳。
そこからまるで宝石のように夕日を受けながら零れる涙。
怒りに震える拳も、踏みしめた両足も、今にも壊れそうな程華奢なくせに若いエネルギーに満ちあふれている。
一回り以上も年が違うせいだろうか。
カティスは本当にアンジェリークには甘いのである。
彼女が何をしても笑って許せてしまう。
先生と生徒の間柄を表面、続けていくならば、こんなことではいけないと思うのであるが、何せ彼女が怒るのも笑うのも何かをするのにも彼女なりの理由があって、そしてその理由はいつも、カティスが納得出来うるものなのである。
また、彼女に甘いのはカティスだけではなく、同性の友達、果ては先生方までが彼女を可愛がっているので、恋のまっただ中にある彼がやにさがってしまうのは仕方ないことであった。
…最もカティスは誰に対しても人当たり良く、気さくな人物ではあったが。
「あー……、その、アンジェリーク、」
彼は顔が緩まないよう注意しながら、一歩ずつゆっくりと近づいていった。
「やだっ、こっちこないでっっ!」
「…勘弁してくれ…。誰かに聞こえたら、まるで俺が襲ってるみたいじゃないか」
「そんなの関係ないもんっ、」
「頼むよ、アンジェリーク。俺に説明させてくれ、」
そう言われては、アンジェリークとて彼の事を本気で嫌いになった訳ではないので、聞いてもいいかな…という気持ちになってくる。
「分かった、じゃあ説明して」
そう言ってもまだ両手を腕組みし、紅潮した頬を僅かに膨らませていた。
そしてカティスは彼女の方に歩き出そうとした。
「ちょっと待って。それ以上近づいちゃダメ。…キスして…誤魔化されたらやだもん」
「は、…はは……」
カティスの顔に再び苦笑が浮かんだ。
そういえばそんな事もあったな……などと頭をかく。
が、気を取り直して顔を緩めないように話し出した。
彼女がある人物からストーカー行為を受けていること、それだけに留まらず学校ではセクハラに近い行為を受けていること、そして二人っきりになると関係を強要することなど、幾分声を低めて説明したのであった。
「その人物は結構信望のある人なんで、両親に言ってもほとんど信用されなかったと言うんだ。相談しようかどうしようか、随分迷ったらしい。…そりゃあそうだ。本人にしてみれば、相当恥ずかしい事も言われたりされたりしたみたいだからな…。他の先生方は見て見ぬふりらしい。あまり相談出来そうな人もいなくて、俺に白羽の矢が当たったようなんだ」
それなら話は分かる。
カティスはいつでもどこでもその人柄か誰にでも信用され、頼りにされる。
アンジェリークも、婚約者であると言うことを除いてさえ、彼が一番信頼出来る人だと思う。
それにアンジェリークは彼の言葉の中に不審なものを感じ取っていた。
「…他の先生って……まさか、この学校の先生なの?」
カティスは舌打ちして額を押さえた。
そこまで彼女に言うつもりは無かったのに、ついうっかりと口を滑らしてしまったのだ。
口止めすれば、アンジェリークの事だから言う心配はないであろうが、おそらく疑心暗鬼が態度や表情に出てしまうだろう。だが、ここで誤魔化すとさらにまずい事態におちいると確信したカティスは、やはり口止めする以外に方法はないと考えた。
「なあ…、アンジェ…!?」
一時、乾いた涙が再びボロボロと零れはじめていた。
濡れた瞳と酷く悲しげな表情が、必要以上に彼女を儚く見せている。
このまま、涙と一緒に溶けて流れてしまうのではないかとまで思えた。
「…アンジェリーク……」
(そうだった…)
人の哀しみや苦しみを当人と同じ程に感じ、そしてまた、嬉しい時楽しい時も一緒になって喜んでくれる。
そういう人間なのだ。アンジェリークは。
カティスはあらためてアンジェリークを愛しげに見つめる。
「ごめんなさい……私……。そんな事があったなんて……知らなくて……あの子とカティスにやきもち焼いたりして……。酷いよ……、そんな……何で彼女がそんな目に会うの?」
アンジェリークは脳裏に焼き付いている彼女の姿を思い浮かべてみる。
さらさらで長い黒髪。華奢な手足。ほっそりと小さめの顔は綺麗に整っていて、女性から見ても愛らしい。控え目な性格を現しているかのように伏し目がちで、あの時、僅かに震えていたかもしれない。
「先生って、信頼するべき人でしょ? そんな人から…そんな……」
「アンジェリーク」
とうとう堪えきれなくなったカティスは、大股で彼女に近づき強引に抱きしめる。
柔らかな金の髪…。
彼女の髪はいつも日溜まりの匂いがする。
強く抱きしめると壊れてしまいそうだ。
それでも腕を緩めることが出来なくて、勢い余って彼女の髪を揉みくちゃにした。
「君が…そういう人だと、忘れていたよ。いいんだ……もう、泣かないでくれ」
「…カティス、協力してあげて。彼女を助けてあげて。もちろん、私誰にも言わないし、出来ることがあれば何でも協力するわ。…だからお願い……」
両手で頬を包み込んで顔を仰向かせると、未だ止まらない涙がカティスの手を濡らす。
「大丈夫…、分かったから…。だから泣くな」
涙を唇でぬぐい取り、カティスはそっとそれを彼女の唇に重ねた。
「…もう、怒ってないのか……?」
その言葉にアンジェリークは僅かに頬を染める。
「…ごめんなさい。私の…早とちりだわ」
「いや、俺が悪かったんだ。君に甘えていた。言わなくても分かるだなんてなぁ。そんなきれい事、考えていた訳じゃないが。
…でも、これだけは信じてくれ。
俺が愛しているのは、アンジェリーク、君だけだ。今も……。これからもずっと」
再び唇が重ねられる。
今度は少し長いキスだった。
カティスが己の心に負けないうちに顔を離すと、彼女のぽぉぅっとした顔が映る。
そのとろけそうな表情に甘いときめきを感じながら、今度はそっと、優しく抱擁した。
「……君はすごく怒っていたかもしれないがな……、実を言うと俺は少し嬉しかったんだ。
……君が、俺にやきもちを焼いてくれたこと」
「もうっ、カティスってば」
逃れられない優しい腕の中で、アンジェリークは甘えるように彼の胸を軽く叩いた。
Postscript
甘い二人の学園生活。
事件の匂いもさりげなく漂わせ、これからもしばらく続くことになるでしょう。
…なるかもしれない。………たぶん…なるかなぁ…? ……う~~ん……。