「まいったね………。もう……お手上げだよ……」
夕暮れの気配が忍び寄ってきた自室でセイランは、疲れたように椅子に座り込んでいた。
彼の回り、部屋中にスケッチの紙、紙、紙……。
散乱する白い紙の上には鉛筆やいろいろなものでデッサンが描かれている。
それは全て、一人の少女であった。
穏やかに笑う少女。
楽しそうに微笑む少女。
怒ったように、こちらを睨む少女。
物思いにふける少女。
目を閉じて安らぐ彼女。
うっとりと窓の外を見つめる少女…。
そして、セイランの胸中もこの部屋のように少女の面影で一杯になっていた。
「あ~~あ……。こんなに遅くなっちゃった。まったく…、大切な資料を忘れてきちゃうなんて、なんたるドジ…。しかもそれに気付いたのがもう何時間も経ってからだなんて……」
一人ぶつぶつ呟きながら、アンジェリークはとぼとぼと石畳みの道を歩いていた。
目指す場所は学芸館。
感性の教官の部屋である。
午前中に講義を受けた後、育成の資料をその部屋に忘れたまま、守護聖のところに出かけてしまったのである。
育成をお願いした後でお茶に誘われ、数人の守護聖と午後のお茶を楽しんでからふと、講義の前に王立研究院から受け取ってきた宇宙の育成資料を感性の教官の部屋に置いてきたことに気が付いた。
慌てていとまを告げ学芸館に向かったが、楽しいお茶会につい時間を忘れてこんな時間になってしまっていた。一瞬、明日にしようかとも思ったが、今夜そのデータを検討して明日の育成や授業の計画を立てねばならない。やはりどうしても今日取りに行きたかった。
ふう……。
自然と溜息が出る。
アンジェリークは感性の教官が苦手だった。
過去形であるのは、今はそれほど苦手というわけではないからであるが、彼のあの全ての真実を見つめる視線にだけは、未だ戸惑っていた。
あの透き通った青い瞳に映る景色が、彼にはどんなふうに感じられているのか……。
そう考えると果てしなく想像の翼が広がっていくような気がする。
もっと知りたい……。
もっと、彼のことを知りたい。
そう思っていても、ちょっと皮肉めいたことを言われるとつい言い返してしまう。自分でもちょっと気の強い性格を気にしているのではあるが、自分の信じる物を笑って“否”と言えるほど大人でもない。
うち解けたくて彼の元に通い詰めても、それは余り変わらないかった。いや、それどころかますますからかわれ、皮肉に少しだけ傷付いて、らしくなくナイーブになっていく自分がいる。
それなのに!
いつの間にかそんな彼を好きになっていく自分の心が全然理解できなくて、アンジェリークは食事も出来ないぐらい悩んだ。夜も眠れないぐらい悩んだ。
…その結果、結局何も変わらなかった。
彼を好きな自分がいて、彼の本当の心を知りたい自分がいて、そして彼の言葉はいつも無数の棘と謎に包まれいた。
でもそれぐらいでめげる彼女であれば、セイランの事をこれほど好きにならなかったに違いない。
半分は会いたくて、半分は意地で、彼の元に通った。
最近では好意的な言葉を受けることも多くなっていたが、時折心の底まで見透かすような鋭い視線を投げつけられる。自分が不純な動機で学習していることを知られているような気がして、どきどきした。それはそれでスリルがあったが…。
褒められることもたまにはあった。
そんな時の彼は深く艶やかな瞳を彼女に向ける。
それが一番戸惑った。
どうしていいかわからず狼狽える間に、次の瞬間にはいつもあの人を見下したような態度に戻ってしまうのだ。
彼の態度に一喜一憂してしまう自分がいやで、しばらく講義を受けないでいた時期もあった。
しばらく顔を見せなかったアンジェリークのもとに、心配してくれたのか ───もっともそんな態度はまるで見せなかったけれど ─── セイランは訪れてくれた。
そして相変わらずな言葉を置いて帰っていった。
その時、アンジェリークは自分の心の中で、彼の存在がどれほどの割合を占めているのか知ってしまったのだ。………ほとんど、全てが彼の事で一杯だった。
“セイラン様が好き”
“それでも好き”
“……だけど、好き”
もう………その迷路から抜けられなくなっていた。
「セイラン様……?」
部屋の扉を取り敢えず控え目にノックして声を掛ける。
しかし、その返事は帰ってこなかった。
教官達は学芸館に私室を与えられているので、ここにいないのであれば私室に戻っているか、外出しているのであろう。
どうしようか迷いながらも、アンジェリークは扉を押してみた。
「開いちゃった…?」
軋んだ音を立てて扉が開かれてゆく。
夕闇にくすんだ部屋がぽっかり口を開け、アンジェリークは吸い込まれるようにその中に足を踏み入れる。
「セイラン様…?」
声を掛けてみるが、灯り一つ灯されていない部屋にはむろん、彼のいる様子はなかった。……が。
「??」
次の間に続く扉が僅かに開いていた。
その隙間から白い物が見える。
「なに……かしら…?」
資料のことなどすっかり忘れたアンジェリークは、その扉に近づいてそっと中を覗いてみた。
「!!」
部屋中一面、白い紙が敷き詰められている。
そして仮初めの雪原の真ん中にぽつんと椅子が置かれ、青い宝石のように見えるセイランがその椅子にもたれて眠っていた。
(セイラン……様…)
アンジェリークはその無防備な寝顔に吸い付けられるようにそばに歩いていく。
敷き詰められた紙がカサカサと僅かな音を立てるが、それに気付く様子もなく、雪の精霊は穏やかに眠っていた。
僅かに開かれた薄い唇。
それは微かに微笑を湛え、彼の見る夢が安らかなものであると語っている。
臈長けた頬。
長い睫毛。
“美しい”という言葉だけでは表現しきれない美がそこにある。
しかしアンジェリークはその目に見える“美”よりも、眠れる精霊が無防備に自分をさらけ出しているのに目を奪われた。
起きている時は決して見ることの出来ない素直な彼の表情。
微笑を湛えているにも関わらず、どこか淋しげに、何かすがるものを求めて探し続ける子供のような…切なげな表情は、彼女の心をキュッと締め付ける。
「セイラン様……」
彼の前まで歩み寄ってきたアンジェリークは、知らずに彼の名を漏らしていた。
その声が聞こえたのか否か、彼の瞼がパチリッと開かれる。
「アンジェ……リーク…?」
夢の続きが目の前に立っていた。
彼に向かって微笑みかけるアンジェリーク……。
彼女と二人、創り上げる何かを求めて彷徨うあてのない旅。
つい今まで、セイランはそんな彼女の夢を見ていた。
常に彼にインスピレーションを与え続け、その心を読み解くために想像の翼を限りなく広げてさせてくれる、空の青を持つ瞳。
その瞳にどんどんはまってしまう自分が怖くて、言葉の刺を無数に張り巡らせて己を守っていた。
でも彼女はそんなささやかな抵抗すら物ともせずに彼の心に侵入してくる。
いや、彼は気付いてしまったのだ。
彼女が侵入してくるのではなく、自分が受け入れているのだということに…。
そして、知った。
彼女が自分の心に一歩踏み込むたび、その創造の琴線が大きく震え、自分の世界が広がってゆくことを。
“愛”という陳腐な言葉が彼の中に生まれる。
だが、その俗な響きはなんと心地よいことか。
セイランは己の心の迷路の出口に佇んでいる少女の姿を濡れた瞳で見つめた。
「君が来るって……わかってた。……なぜなら僕が君に、……会いたかったから」
セイランらしい、けれど今までになく素直な言葉。
アンジェリークはとっさにどう答えていいか分からなくて、彼の瞳からついっと目を逸らす。だが、逸らした先にあったものは…。
(えっ……これ……って……私…?)
白い紙の原に描かれた、おびただしいほどのアンジェリークの絵。
さっきはセイランの寝顔にばかり気を取られていて、足元になどまったく注意してなかった。
「君はこの責任をどうやってとってくれるんだい?」
セイランはアンジェリークのふいをついてぐいっと腕を引っ張る。
バランスを崩して彼の腕の中に倒れ込んだアンジェリークは、驚きの余り彼の顔を睨み付けた。
「危ないじゃないですかっ」
「危ない? 今、危ないのは僕の方だよ?
もっとも別な意味で君も危ないかもしれないけれどね…」
またあの、深く煌めく瞳…。
アンジェリークは胸の鼓動が高まりすぎて、セイランの耳にも聞こえてしまうのではないかと狼狽えてしまう。
しかしセイランは、そんなアンジェリークの表情を見て困ったように笑った。
これもアンジェリークが始めて見る、表情であった。
「僕は今、僕の短い生の中で最初で最後の創造の女神を、手に入れるか失うかの瀬戸際なんだ。
……さあ、この僕の中から始終離れることのない君の面影……。一体どうしてくれる…?」
セイランの顔がゆっくりと近づいてくる。
頬に息がかかるほどに…。
アンジェリークの鼓動は極限まで高まり、それでも、彼の言葉を噛みしめようと努力はするが、混乱する頭では何も答えが浮かばない。
アンジェリークはパニックの余り、まるっきりとんちんかんな言葉を口にした。
「わっ、私……、煮ても焼いても食べられませんっっ」
唐突にそう叫んだ彼女を見て、セイランは盛大に吹き出した。
どさくさに紛れてアンジェリークを強く抱きしめながら、セイランは少年のような笑顔で笑い続ける。
「セイラン様っっ」
訳も分からずに強く抱きしめられ、狼狽えながらもこの戯れに腹を立ててる様子のアンジェリークに、ようやくセイランは笑いをとめ、彼女を離すと立ち上がった。
「まったく……。いつも君には驚かされる。あの状況で、あんな答えが返ってくるなんて…」
まだ、可笑しさの尾が引いているのか、時折笑いを交えながらセイランは紙の原を踏み越えて窓辺に近づき、暗くなってきた部屋を振り返った。
「セイラン様っっ」
説明を求めて睨み付けるアンジェリークの視線を軽く受け流し、セイランは「やれやれ…」と小さく呟く。
「君は僕の名前しか言えなくなったのかい?」
「そんなことないですっっ」
「じゃあ、言えるよね。『女王になるよりあなたと一緒にいます』って…」
「えっ??」
思いも掛けない言葉。
アンジェリークはすぐに意味が飲み込めずにあっけに取られて彼を見た。
しかし、部屋の暗さが災いして、その表情はほとんどわからない。
「今度は口もきけなくなったのかな。それとも、否定と受け取ればいいの?」
「わ、私は……」
ひとまず意味を理解したアンジェリークは、次は恥ずかしさの余りに言葉がつかえてしまう。
どれほど気が強くとも、やはり恋する少女であるには違いないのだから。
「私………」
しかし、彼女はこくんっと息を飲んでまっすぐに彼を見つめる。
(言えるわよ、それぐらい…。だって……私……セイラン様が好き……好きだもの……)
覚悟を決めたかのように、胸をはって一歩踏み出すアンジェリークを見て、セイランは“美しい”と……、そう思った。
「私…、女王になるより、セイラン様と一緒にいたい。……だって……セイラン様が好きだものっ」
彼が驚いて目を見張る。
僅かな沈黙の間が二人に流れた。
「セイラン様?」
「……ああ、聞こえたよ。…でも、ほんとに言うとは思わなかった」
セイランは彼女の方につかつかと歩み寄る。
「女王なんかになるより、僕と一緒にいる方がずっと退屈しない人生を送れるはずさ。君は今、この世に生を受けてから一番大事な選択で、間違えずに選ぶことができたんだ」
見上げると、いつもの彼からは想像がつかない、優しい顔をしていた。
そして澄んだブルーの瞳に映っているのは彼女、アンジェリークの姿だけ。
セイランは一瞬目を閉じ、そしてゆっくり深呼吸しながら目を開けると、アンジェリークの身体をそっと抱きしめた。
栗色の髪に顔を埋め、囁く言葉は…。
「そう言えば、僕はまだ言ってなかったね。
………愛してる、アンジェリーク………」
FIN
Postscript
セイラン様、初主演作品です。
彼は好きなんだけど、あの独特のセリフには参りました。
辛辣さがないと彼じゃなくなっちゃうし、かといって甘々にしたかったし(笑)
今一つ、本来の彼とは遠いですが、取り敢えずお楽しみ下さい。