午後の陽射しは緩やかに、しかめっ面を崩さずかっきりと歩いてゆく王立研究院主任の上にも分けへだてなく降り注いでいる。
今日は土の曜日。
毎週定例の女王候補の到来もそつなくこなし、溜まった仕事も嫌な顔一つせず、否、むしろそれこそ望みと言わんばかりに傾倒して、午後もお茶の時間を過ぎた頃に研究院を後にした。
いつもなら本当は暗くなるまで気づかずに研究院で仕事をし続けているのだが、この堅物には珍しく、あまりにも優しい午後の光に誘われたとでも言おうか。気分転換も兼ねて占いのデータを取りに行くことにしたのだ。
(どうしたのだろう、メルは……? いつもなら午後になると銃弾のように飛び込んでくるのに……)
まあ、飼われた猫のようになつっこい子だ。きっとどこかで誰かと会ってしまったに違いないと、彼は思っていた。
待たされた事も、仕事がそこから進まない事も、何故か今日はあまり気にならない。きっとこの爽やかな気候のせいであろう。
銀縁の眼鏡の奥でターコイズブルーの瞳を眩しそうに細めながら、彼は灌木と常緑樹の並木に囲まれた石畳の道を占いの館に向かって歩く。
灌木の向こうには庭園が見える。
土曜の午後とあって人が多く、笑いさざめき合う家族や寄り添う恋人達、無邪気にはしゃぐ子供達の姿も見える。この聖地でも、普通に暮らしている人々が確かに存在することを確認した彼であったが、どうにもその光景は自分とかけ離れた異世界のように思えてならない。
彼にとって研究が全て。仕事が全て。
穏やかな日常とはただ研究に没頭できる日のことであり、平和な日々とは毎日与えられる、もしくは成すべき仕事がある日々のことである。
家族や友人と語り合う、また恋人と甘い時間を過ごす事などはまるで望んでいない。
それこそ彼の研究を妨げるものにしか感じられないのである。
聖地に来てからというもの、以前の生活以上の充実感があった。
自分が必要とされる仕事。研究者にとってこの上なく魅力的な研究材料である“宇宙”そのものの存在。そしてそれをやり遂げているという毎日の充実感。
下界にいたのでは身近に感じることの出来ない神秘な世界を、今彼は筆頭研究員として非科学的な世界にメスを入れているのである。
(しかし……)
その彼の充実した日々に影を落としているのが、あの女王候補の存在であった。
(どうして……あんな少女が……)
どこからどうみても普通の少女である。
明るくて、可愛い。笑顔を向けられるとどうにも落ち着かない時もあるが、とりたててもう一人の女王候補のように成績優秀であるとか、何かに飛び抜けて天才的だということもない。本当に、下界にならどこにでもいるような少女なのである。
(いや……)
彼はふと立ち止まり俯いた。
(時々、何か不思議なものを感じる時もあるが…)
ややこしいデータ解析の説明を真剣に聞いてくれた瞳。
もう一人の女王候補ならば、面倒くさそうに掌をひらひらさせて『そんなこと説明されなくてもわかるヨ』などと言うのであろうが、あの少女は何か楽しい話しでも聞いているように熱心に耳を傾けてくれた。
「………と、以上です。お解りになりましたか?」
「はい。どうもありがとうございました」
にこっと邪気のない笑顔を向ける。
そんな時彼は、……宇宙の風……とでも例えればいいのであろうか、言いようのないざわめきが身体の中心を駆け抜けていくような感じがするのであった。
それは一体何の兆しであるのか。
彼の経験や研究では、何も分かりはしなかった。
(……? あれは……!)
木漏れ日が投げかけるヴェールの下、足取りも軽やかに少女が歩いてゆく。
彼のいる石畳の歩道と庭園とのちょうど中間あたり。
滑らかな芝の絨毯を敷き詰めた上。
まばらに木立が並ぶ中、栗色の髪を微風になびかせ、僅かに上気した頬をして、何か書類の束を胸の前に抱えているのはまぎれもなく……
(…アンジェリーク…? なぜこんなところに…)
今日は土の曜日だ。
午前中宇宙を訪れた後は何の用事もないはずである。
彼には用のない時に、用のない所で、何の意味もないことをするという概念はまったくない。
だから彼女が研究院からの帰りに庭園でぼぉっと陽射しを浴びていたことや、流れ落ちる噴水のきらめきに目を奪われていたことや、まして輝かしいばかりの女王陛下のお力に溢れたこの聖地の風を感じるためだけに歩いていること…など、思いつくはずもなかった。
何が嬉しいのか少女は次第に足取りが軽くなり、スキップをし始める。
そしてそれは段々と小走りになって……
「あっ!! 危ない!!」
思わず。
彼は口に出していた。
どういう勢いでそうなったのか?
少女は何かに引っかかったように足を止め、しかし足の行動についていけない上半身がバランスを崩してあわや倒れそうになり……。
本当に転んだ。
「………ふうっ……」
眼鏡を押さえた彼は力無く首を振る。
「注意力散漫ですね……」
スキップをするのも駈けるのもダメだとは言わないが、あんな何もないような所で転ぶなどと、それ以外の何者でもない。
少女というのはあんなものなのであろうか?
どうやら彼には理解できそうになかった。
「もう少し周りに目を配らないと……。レイチェルと女王の座を競うなどとは…」
彼女とは大分前からの知り合いだ。
天才少女と言われ、また彼女自身もそれなりに努力を怠りはしない。周りにちやほやされているせいで多少デリカシーに欠けるきらいもあるが、女王になるには相応しい存在であろうと彼は思う。
アンジェリークは、はらはらと散乱した書類を一生懸命に拾っている。
やがて全部回収すると、少女は再びスキップをしながら庭園の方へと消えていった。
「…アンジェリークには落ち着きが必要ですね。もう少し落ち着くと、周りがよく見えるようになる。あんな何もない所で転ぶなどと……」
「あなたにはそんなふうに見えるんですか?」
一本の常緑樹の影から凛と澄んだ声が飛んだ。
声の主がゆっくりと姿を現す。
あまり飾り気のない、それでいて服の主によく似合っている白と青に彩られた上着。端正な、女性とも見紛うばかりの美しい顔。さらりと、肩の上で切り揃えた髪を揺らしながら彼の前に現れたのは感性の教官、セイランであった。
「これは…セイランさん。こんな所でお会いするとは…」
「珍しい? それはこっちのセリフだと思いますけど」
微笑を浮かべた口にやや皮肉を漂わせ、セイランは少女が先程転んだ場所を示した。
「僕は多少歪んだ物の見方をしてしまうからね…。時に…現実の少し深くにある真実を見つけることになる」
何のことやら分からない彼は返答に困ったが、疑問をそのままにしておくのは研究者としての沽券に関わる。
セイランの指し示す場所に何があるのか?
彼は少し急いた足取りで少女が転んだ場所に向かった。
「……?」
何もない。
青々とした、手入れのよく行き届いた芝が微風になびくばかり。
少なくとも彼にはそう見えた。
「…芝がどうかしたんですか?」
ゆっくりと彼の後からついてきたセイランは、仕方なさそうに溜息をついた。
「日々数字にばかり心を奪われているから…。自然の声も聞こえないんですね、あなたは…」
そう言われて彼は少しむっとする。
彼にだって自然を愛する心はある。
花を見れば綺麗だと思い、木々の匂いを胸に吸い込めば安らぎを感じることもある。
彼は意地になって何かを見つけるためにかがみ、尚一層目を凝らした。
「……?!」
芝の葉の上に何か動くものがあった。
丸い身体。赤みを帯びた堅い羽。そこに散らばる幾つかの黒い星。
「てんとう虫……………まさか…」
こんなちっぽけな虫が目に入り、それを踏むまいとして転んだなどと……。
彼にはとても信じられなかった。
「走っていて、こんな小さな虫の存在に気が付くなんて……まさか」
「その……まさかです」
確信を持ってセイランは言う。
「アンジェリークは目で見つけたんではなくて、感じたんじゃないかな、生命の所在を」
呆然としてかがみ込んでいた彼は、やっと気を取り直して立ち上がった。
「そんな馬鹿なことがあるわけがない。目で見える以上に感じられるなんて」
「あなたはこの聖地に来て今まで何を見てきたんですか? そんなことも言ってもらわなきゃわからないのかな。
────何もない空間に現れた球体。しかも意志を持っている。それが宇宙に成長して、今なお神秘の存在として有り続けている。そんな意志と疎通を図れる彼女が、その生命力に満ちあふれた感性で、生き物が発する生の息吹を感じられることは……それ程不思議なことじゃないと思うんですけど?」
必要以上に喋りすぎたと感じたセイランは、「失礼…」と言ってその場を去っていった。
後に残された彼は、新たな発見に不思議な感動を覚えながら立ちつくしていた。
(女王候補……アンジェリーク……。私は……私の方こそ……注意力が足りなかったのだろうか?)
言われて見れば不可思議な行動は今までにもあった。
それを深く考えずに少女の落ち着きのなさと安直に結びつけてしまった自分を深く恥じる。
あれもこれも……。思い当たる事は多々ある。
そう考え至ると同時に、少女に感じていた不思議な感覚が呼び覚まされる。
初めてであった。
こんな風に一人の人間を思って感情が揺り動かされるのは。
(何という存在なのだろう………、神秘的な……それでいて暖かな……)
風の中に命の息吹が感じられる。
そう、彼にも確かに。
木々の囁きや虫達の存在。人々の交わす暖かな感情の交流。
そしてその中に少女の優しい力が確かに満ちているのを感じる。
(私は………)
その時、彼の中に何かが生まれた。
頑なに何かを追い求めていた心が新たな何かと出会い、変革を遂げてゆく。
それは風に乗って聖地に広がる。
眩いきらめきとともに…。
Postscript
なんだかとっても爽やかなお話で(笑)、久しぶりに普通に戻ったような気がします。
「あの娘のことならなんでも知ってるぞ~」みたいなセイラン様が書きたくて、
ちょっとエルンストさんに悩んでもらいました(笑)