『これはホントに効くでぇ~。どんな人でもイチコロや。だからな、使い方、間違えんといてや~』
別れ際に商人が言った言葉がアンジェリークの頭の中でリピートする。
(……ホントにこんなことして、いいのかしら……)
これも何度も考えた事だ。
スカートのポケットに手を入れると、冷たいガラスの感触がある。
(でも……、知りたいよね……本当に…)
この小さなガラス瓶の中には透明な液体が入っているはずだ。
(でも……でも……)
幾度も否定したり、肯定したり。
それでもやはり最後はこの液体を使うことに決めて、ここまで来た。
通された部屋の、ソファに腰掛けて、アンジェリークは何度目かの決意をしたのだった。
(……ちょっとだけなら……、)
「どうした?」
その手に不釣り合いな、小さなトレイを持って入って来たのは精神の教官、ヴィクトールであった。
「い、いいえ…」
自然と声が消え入りそうになる。
「おかしな奴だな」
そんな奥床しい感じも好ましく、ヴィクトールは優しい瞳で少女を見下ろすのだった。
「こんなものしか出せんが…」
そう言いながらテーブルにコーヒーカップを二つ、危なっかしげに並べる。
「あの……、すいません…。私…」
「なんだ?」
「あの…、ミルクが欲しいんですけど…」
見るとカップとスプーンはソーサーの上に乗っているものの、砂糖もミルクも見あたらない。
「あっ? すまんすまん。…どうも慣れないものだからな…。今持ってきてやるから、待ってろよ」
そう言ってそそくさと部屋を出る。
(今だわ……、入れるなら……今しか…)
震える手で小瓶を取り出すと、アンジェリークは向かいのカップにその中味を少しだけ注ぐ。
(ごめんなさい……。ヴィクトール様…。でも、でも……私…もう、これしか……)
飲んだ人の、心の内を聞き出せるという媚薬。
庭園の商人は『真実の媚薬』と言っていた。
罪悪感で胸が苛まれる。
罪の意識は、どんな理屈で自分を正当化してみても消えるはずはない。このことを知れば、ヴィクトールはもしかして激怒するかもしれないし、反対に寂しそうにするかもしれない。そう思うと、今更に止めようかなどと迷ってしまうのであった。
そっと瓶を握りしめ、何度も心の中でヴィクトールに謝罪すると、少女は身を縮めて彼の訪れを待った。
「待たせたな…、砂糖がどこにあるのか分からなかったんでな。慣れないことをするもんじゃない。世話係の人が不審そうにオレを見ていた」
ヴィクトールは笑いながらそう言うと、砂糖とミルクをテーブルに置いた。そうして自分も椅子に座るとカップを持ち上げる。彼はいつも、コーヒーに何もいれないのだ。
アンジェリークもつられて、弱々しく微笑みを返した。
彼の器用なようで不器用そうな所が、いつも彼女の胸をときめかすのだ。
そんな彼女の様子をヴィクトールはじっとテーブルの向こうから見つめていた。
「いいのか?」
「えっ?」
問いかけが、心の裏を探られているような気がして、アンジェリークはビクッとする。
「貴重な日の曜日にオレのところでお茶をしているなんて。若い者たちと、デートの一つもしないのか?」
「そっ、そんな……。私……デートなんて…」
ずきんっと胸が痛んだ。
ヴィクトールは最近アンジェリークと二人になると、こういう態度をとることが多くなった。
楽しく話しているかと思うと急に自分を遠ざけるようなことを言ったり、アンジェリークとヴィクトールがどれだけ離れた存在であるかを強調するような言い方をしたりする。それは決まってアンジェリークが、少しでもヴィクトールの心に近づいたかな…と思えるような時であった。
そう、アンジェリークはこの少し不器用な精神の教官を愛してしまっていた。
彼といる時間、話す言葉、一つ一つが彼女の心の重要な位置を占め、いつの間にか試験よりも、宇宙よりも一番大切なものに成長してしまっていたのだ。
「そうか…」
そう言ったきり、ヴィクトールはアンジェリークから視線をそらし、カップを口に運んだ。
「あっ!」
突如、アンジェリークが声を上げる。
ヴィクトールが驚いて彼女を見る。
アンジェリークは青ざめた顔をして、唇を震わせながら何か言いたげに彼を見つめていた。
「どうした?」
彼女はふっと我に返ると、消え入りそうな声で「いいえ…」と答える。
「…そうか……?」
彼女の返事に表情ひとつ変えることなく、それ以上追求するようなこともしなかった。代わりにそのまま儚げな彼女の瞳を見おろし、ついっと目をそらす。
アンジェリークはそんな空々しい態度に酷く傷ついた。
(わざと……なの?……)
彼女といるのが嫌でそんな態度をとるならば仕方ない。でも何か他に理由があるならそれを聞きたい。
アンジェリークは彼の本心を彼の口から直接聞きたかったのだ。
(ヴィクトール様ごめんなさい…)
どうして? と問う自分の勇気のなさに情けなくなった。
コーヒーの芳香が部屋中に漂う。
昼の光の中で立ち上る湯気が蜃気楼のように霞んで消えた。
ヴィクトールはゆっくりカップに口をつけると、一口、味わうように飲み込んだ。
アンジェリークはそれを見届けるとぎゅっと身体を硬直させて俯いた。
ちらり、と、ヴィクトールは彼女に視線をくれ、カップの中味を一気に飲み干す。
(ヴィクトール様ごめんなさい…。ごめんなさい…)
心の中でアンジェリークはずっと謝り続けた。
「飲んだぞ…。……これでいいのか?」
ヴィクトールはカップをそっとソーサーに戻すと、そう言った。
「ヴィクトール様!」
彼は知っていたのだ。
アンジェリークがカップに何か入れたことを。
知っていてそれを全部飲んだのである。
「分かって…らしたんですか……? 私が……コーヒーに……」
ヴィクトールは軽く頷く。
「どうして? それならどうしてそれを飲んだの? ……もしかしたら……毒かもしれないのに…」
「ははははっ…。お前がオレに毒を? ……それもいいかもしれないな」
「ヴィクトール様!」
「すまんすまん、冗談だ。……お前は何か考えがあってこれをオレに飲ませたかったんだろう? だったらオレはそれに乗るだけだ。……オレはお前の……教官…だからな」
ヴィクトールは僅かに歪んだ笑みを浮かべ、そして自分の身体の変調を確かめる。
四肢には異常は現れていないし、胃も特におかしい所はない。その他にも気になるような兆候は現れず、彼は首をかしげた。
「別になんともないが…。お前……いったい何を飲ませた? 全然何も起こらないぞ。……強いて言えば少し暑いような気がする…かな?」
「あの…ごめんなさい…」
ここまできても、『真実の媚薬』と言う勇気は出なかった。
「あやまる必要はないさ。オレは知っていて飲んだんだ。自分の判断で飲んだんだから、お前には責任はない」
「でも……」
「アンジェリーク」
ヴィクトールは立ち上がり、大股でテーブルを回り込む。そして彼女の脇に膝をつくと、目線を同じにした。
「お前は…優しいからな。いつも自分を犠牲にしてまで他人を気遣う。そんなお前が初めて自分の為に何かしようとしたんだろう? だからそれほどまでに罪悪感を感じるんだ。…もっと…、時にはわがままを言ってもいいんじゃないか?」
「ヴィクトール様」
涙が溢れてくる。
傷ついた自分の心を癒すために犯した罪。でもそれは人間ならば誰にでもある自己防衛本能であること、決して罪にはならないこと、そうヴィクトールは言う。
「お前がこれほど悩んでいるとは気が付かなかった。こんなに追いつめられていたなんて。…このごろ妙に沈んだ顔をするから気になっていたんだ。…どうしてだ? オレは若い娘が悩む理由を考えつくことが出来ない。…すまない。こんな情けない教官で」
「ち、違います! ヴィクトール様が悪いんじゃ…」
涙の宝石をぽろぽろ捲きこぼしながら、アンジェリークは激しく首をふった。
「私の…私のわがままだから…」
「さっき言ったろう。お前はもっとわがままを言うべきだ」
少しためらった後、ヴィクトールは彼女の涙を指でぬぐった。その手を覆う白い手袋が涙のシミを作る。
「私…私……」
何かを訴えるように揺らめくグリーンの目。濡れた瞳が鮮烈にヴィクトールの心を刺し、彼はこれまでにないほど動揺してしまった。
「アンジェリーク……」
必死で押しとどめていたものがあふれ出そうになって、ヴィクトールは身体を震わせ忍耐の限りを尽くさねばならなかった。
アンジェリークの唇が言葉を紡ぎ出そうとして上下する。でも出てくるものは空を舞う風ばかりで言葉にならなかった。
「……オレの……、もしかしてオレのせいなのか?」
アンジェリークは答えない。
「すまん…」
「ヴィクトール様、」
謝る必要などないと、アンジェリークは首を振る。
「いや、謝らせてくれ。…オレは……、解っていたんだ。お前を遠ざけることで少なからずお前を傷つけてしまうことが。だが、それほどに、こんなに思い詰める程傷つけてしまっていたとは…」
アンジェリークの肩を両手で掴むと、ヴィクトールは精一杯、誠意を込めて見つめ返した。
「今ならば間に合うと……、そう自分に言い聞かせてきた。お前の微笑みがオレの心を癒し、生きる目標を見つけた時、もう既に引き返せない所まで来ていたというのにな…」
「ごめんなさい! …言わないで……もう何も言わないで!」
アンジェリークはヴィクトールの言葉を遮るように両手で自分の耳を覆う。
「今ヴィクトール様がそうやって話してくれるのは、さっき入れた薬のせいなんです! 『真実の媚薬』と言って、本当の心の内を話してくれるって…。ごめんなさい! 私、ヴィクトール様の心が知りたくて…」
ふいに、アンジェリークは熱い抱擁に包まれた。
広い胸が、暖かく彼女を迎えている。
「お前がオレの心を知りたいと思うのは………もしかして」
アンジェリークを抱く腕に力がこもる。
「オレは…オレは……少しは自惚れてもいいのか?」
「……好きです…、ヴィクトール様…。……愛してます…」
もう、後から後から溢れてくる熱い思いを止めることは出来ない。
ヴィクトールはその思いのままに強く少女を抱きしめ、いい香りのする髪に頬を擦りつける。
「こんなオレに……おまえはそこまで言ってくれるのか。オレももうこれ以上自分に嘘をつくことは出来ない。お前を遠ざけようとするたび、より強くお前を求めている自分に気付く。…教官としてではなく……一人の男として……」
「…! ヴィクトール様…」
アンジェリークの心は複雑に揺れていた。
(これは薬のせい…?)
薬が無理矢理言葉をアンジェリークにとって都合の良い言葉を引きだしたのであろうか?
「お前の考えてることが分かるよ。きっとこれはオレに飲ませた薬のせいだとか、何だとかだろう?」
ヴィクトールはそっと、壊れ物を扱うように慎重にアンジェリークの身体を離すと、穏やかな瞳で見つめた。
「これがもし…。薬のせいだとしても、それはただきっかけをくれたに過ぎない。なぜならオレはもうずっと……お前を愛していたんだからな」
「ヴィクトール様、ヴィクトール様…」
アンジェリークは彼の名前を繰り返し呟きながら、逞しい胸に顔を埋めた。
「女王候補さん……。うまく飲ましたやろか…? ホント、よー効くからなァ、あの“おいしい水”……」
伊達眼鏡の奥で、梢に止まる鳥に向かってウィンクを投げかける。
「さってと…、商売、商売…」
鼻歌を歌いながら商いに勤しむチャーリーであった。
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