──コツン…
窓に何かが当たる音がする。
ともすれば気のせいかな…と思える程の微かな音。
そして少し間をおいて再び
──コツン…
「…?」
詩集を読んでいたアンジェリークは、不審に思って窓を開けた。
一面の星空。
黒く存在感のある森。
寮の裏庭にぼんやりと灯る、幾つかの外灯。
その薄暗がりの中に、白く浮かぶ人影が見える。
「オリヴィエ様…?」
柔らかなシルクのガウンを纏った夢の守護聖は、光臨した大天使のように毅然と立ち、こちらを見上げていた。
「…??」
彼はいつもの表情で、ウインクをしながらくいくいと手招きする。
(…こちらに来い……ってことよね…)
夕食の後からずっと、手招きしてる当人から貰った詩集に読み更けていたため、まだ夜着に着替えていない。
(このまま行っても全然大丈夫だよね…)
アンジェリークは急いで鏡に己を映し込むと、金の髪を彩る赤いリボンと、瞳の色に合わせたエメラルドグリーンのスカート、白いブラウスを手早く直し、最後に唇のリップをチェックする。
夢の守護聖のアドバイスを受けてから、アンジェリークはほとんどスモルニィの制服を着用しなくなった。
“若いんだから…、もっと自分に似合う服をいろいろ着た方がいいよ”
彼は色の選び方からナチュラルな肌のケアの仕方、手や爪の手入れなど、こと細かに教えてくれた。
そんな時間を、アンジェリークはとても楽しく、心躍る一時として過ごしてきた。
彼らが守護聖、女王候補の枠を越えて親しくなっていくのは当然の結果と言えたかもしれない。だが決して育成を疎かにしていた訳ではないし、アンジェリークが人知れず頑張っていたことは聖地の全員が認めていることである。
それでも……。
アンジェリークはずっと考えていた。
「女王にはなりたくない」……と。
裏口からそっと抜け出ると、彼女は小走りに待ち受ける夢の守護聖の元へ向かう。
「…こんな夜に……、どうしたんですか?」
シャワーでも浴びたのであろうか?
うっすらとメイクしてはいるが、昼間程ではない。
それでも綺麗な肌や長い睫毛は遜色なく、夜目にも際だって美しかった。
その顔に満面の笑みが浮かび、アンジェリークは息を飲んで彼を見上げた。
「あんたが気付いてくれてよかったよ」
オリヴィエは森に続く小径を指差し、そちらに行こうと促しながら言った。
「散歩。…付き合ってくれるかな?」
アンジェリークに異存がある筈もない。
二人は並んで歩き出す。
「ホントは部屋に誘いにいってもよかったんだけどさ…。ちょっと賭けてみたんだ」
「賭け…?」
「あんたが気付いてくれるかどうか……ってね。それでね、もし気付いたら…」
オリヴィエは星空を仰いだ。
今日は月が見えない。満天の星が幽かな光を地上に降り注いでいるので、足元がおぼつかない…という程ではないが、闇は一層闇に帰属し、ちょっとだけ恐怖心を煽る。
アンジェリークは慣れた足取りで歩く夢の守護聖のガウンをそっと掴んだ。
「ん……? ……怖いのかな?」
「…ちょっとだけ……。でもっ、オリヴィエ様と一緒だから…」
オリヴィエは言葉を飲み込む。
(闇よりも……男の方が怖いんだってこと、分かってるのかなこの子は……)
それとも自分は男の部類に属してないのかと、苦笑する。
罪のない小動物や虫達の立てる僅かな音に反応するのか、アンジェリークはその度に彼のガウンをギュッと握りしめる。
オリヴィエの手が握りしめた少女の手に触れた。
拳を外すとその大きな手の中にすっぽりと包み込む。
黙ったまま手をつないだ二人は、森の奥へと歩いていった。
「うわぁぁぁ……」
おっきな瞳をさらに見開いて、アンジェリークは感激のあまり声を上げた。
「…きれい……」
木々が途切れると、少し開けた場所にでた。
中央が少し盛り上がった広場。
そこに無数の花々が咲き乱れている。
しかし、その花々が皆淡い光を放っているのだ。
近づいて良く花を見てみると、釣り竿の様な茎の先に小さな釣り鐘状の花がくっついていて、その花が燐光を帯びている。
「フェアリー・テール…って言う花なんだって。“妖精のしっぽ”って意味。この時期の夜にだけ花が咲くんだって、どっかの本の虫が言ってた。…これをあんたに見せてあげたかったんだ…」
上を見上げても星空。そして地上にも。
まるで宇宙空間に漂っている気分だ。
自分がどこに立っているのか、分からなくなってくる。
アンジェリークは軽い目眩を感じ、強くオリヴィエの手を握った。
「どうしたの?」
「なんだか…目眩が…」
「こっちへおいで」
手を引いて、広場を渡っていくと向かい側に小さな東屋が見える。
「少し坐ろっか」
再び星の花の方に目をやると、アンジェリークは深く溜息をついた。
「本当に……きれい」
「あのね、これからもっときれいになるよ…」
オリヴィエの言うそばから、ふわりっと一つの光が浮き上がる。
ふわり
ふわり…
見る間に幾つもの光が宙に舞い上がり、地上、空と言わず、ホタルのように星の花が咲く。
燐光が花から解き放たれて、静電気の作用で上へ上へと昇っていくのだ。
オリヴィエは彼女を見つめる。
キラキラと潤んだ瞳と上気した頬で見つめる様は、フェアリーテールの乱舞よりも遙かに美しい。
(独り占めしたいよ…)
前から感じてきたその思い。
眠れぬ夜も虚しい朝も…、幾度となく彼女を抱きしめる幻想に苦しめられた。
今は手の届く所にその彼女がいる。
「『好きだ』って、言ってみようかな…」
囁くような声。
「えっ?」
見とれていたアンジェリークは、オリヴィエの囁きがよく聞こえていなかった。
「今日、あの誘いを、あんたが気付いてくれたら言おうって…思ってたんだ」
オリヴィエはアンジェリークの柔らかな金色の髪に手を差し入れてその感触を楽しんだ。
「……好きだよ」
低く囁く声。
いつもの軽薄な調子の声はなりをひそめ、切なさゆえに思いあぐねて出した、その言葉。
思いを押さえて揺れる瞳が、言葉のみならず、真剣な彼の心を訴えている。
「あんたを……君を愛してる……アンジェリーク」
声が掠れて、手に力がこもる。
アンジェリークは一瞬だけ言葉を失い、それから…。
そっと頬に添えられた夢の守護聖の手を、両手で包み込んだ。
「私も……オリヴィエ様が好き」
二人は見つめ合う。
甘く、言葉のいらない時間がしばし流れ、やがてオリヴィエはふっと肩の力を抜いた。
「緊張しちゃったよ、…ほんと。もし、“私は違うな…”なーんて冷たく言われたらどうしようかって思っちゃった」
アンジェリークがつられて笑う。
それを横目で見て、オリヴィエは彼女の腰を抱いて引き寄せた。
「これからは二人で…、一緒の夢を紡いでいこうよ…。楽しい夢も、苦しい夢も、全部…。君と一緒なら…どんな夢も、このフェアリーテールの舞う夜よりも、美しい夢になるよ、きっと……」
優しく唇が降りてくる。
初めての口付けは甘く、花の香りがした。
Postscript
女王候補アンジェリークのお話はこれで終わり。
これからはオリヴィエ様との物語が始まります。
あなたの心の中で……。
……じゃなくって、続きは『暗闇の迷路』で見てね。