アンジェリークがすんなりとリュミエールの心に入ってきたのはいつだったであろうか?
気がつくと彼の心の中はいつでも彼女の明るい笑顔で満ちていた。
親元を離れ、心細いであろう日々も、いつも笑顔を絶やさず周りの人々を気遣う姿。
無理だと言われつづける中で、懸命に努力して育成に励む、強い前向きの姿勢。
そして何より、その仮面の下で揺れる、脆くも儚い彼女………。
初めてその仮面の下のガラスの涙を見たとき、心臓を鷲づかみにされたような衝撃がリュミエールを襲った。
少しでも彼女を慰めてやりたくて、己の思いの向くままに優しく抱擁し、金糸の髪を撫でた。
手遊びに描く彼のスケッチ画が、いつの頃からだろう、彼女の表情で埋め尽くされていったのは。
(アンジェリーク……。これは許されぬ想い。宇宙はあなたを必要としています。たとえどれほど私の心が血を流そうと、この宇宙からあなたを奪い去ることなど…………出来るはずがない……。しては………いけないことなのです…)
自分の心に気付いた時から、リュミエールはそう己に言い聞かせてきた。
心の声に耳を塞ぎ、その結果アンジェリークを避けていても……。
それでも…。
己の本当の心の声に耳を塞いでいても、どこかで諦めきれずにいる自分を知っていた。
「…………このところ、気分がすぐれぬようだが…?」
目を閉じて流暢なハープの音に耳を傾けていたクラヴィスは、長椅子から身体を起こしながら呟いた。
「い、…いえ……そんなことは……」
「最近のお前の楽の音は、酷く悲しげで……それでいて投げやりな音色だ。何かあったのか勘繰ってくれ……と言っているようなものだな」
「く、クラヴィス様……」
リュミエールは返す言葉が見つからずに視線を逸らせた。
そう確かに、女王試験も終盤に近付いたこの頃、とても投げやりな気持ちになっていることは認めるが、それが指先から弦に伝わり、周りに知らせていたとは……。
自分の気持ちは知られてはいけないものだ。
胸の奥に隠して、永い時を生きていかねばならない。
(こんなことぐらいで……)
たかが女王試験が終わりに近付いているというだけで、楽に乗せてしまうほど自分が弱い人間であったことに、少なからず衝撃を受けていた。
(…………それほどに………、私の想いは………)
深く彼女を愛していた。
なにものにも代えられぬほど……深く。
だからこそ押し込めればならぬその想い。
しかし、心の奥底で何かが囁いていた。
“宇宙など……、知ったことではない…”
“彼女を手に入れる事……。それよりも大切な事がどこにある?”
その誘惑に負け、アンジェリークを抱きしめ、自分一人だけのものにしてしまいたいと、何度思ったことか。
リュミエールは自嘲気味にくすり…と笑った。
(彼女に拒まれる……とは思わないんですね……)
そんな時でも楽観的思考の自分がおかしかった。
「………私もまだ…………修行がたりないんでしょうか?」
複雑な瞳の色で問いかけるリュミエールをちらりと流し見、クラヴィスは長い指を組んでため息をつく。
「………それでなんとかなるならば………な」
ほとんど聞き取れぬほどの声でそう囁くとすっと立ちあがり、後をついて立とうとするリュミエールを手で制した。
そのまま、不思議そうな顔で見上げるリュミエールの額に軽く手をかざすと、彼の身体に暖かな力が流れ込む。
「……少し休め………。……安らぎの中で本当の己を見付けてみよ……」
そんなクラヴィスの声が遠く、近く、リュミエールの目蓋の裏に沁みこんでいった。
やわらかな少女の微笑み。
穏やかなまなざし。
暖かな木漏れ日が彼女と、そして自分の上に降り注ぐ。
遥か遠くに霞む、碧すぎるアクアマリンの輝き。
風に乗って微かな潮の香りが流れてき、静かなひとときを楽しむ二人を包む。
リュミエールの微笑を受けてアンジェリークが微笑み、やさしく肩を抱いたリュミエールの切なげな瞳が揺れて近付いてゆく…………。
『……これは、私の夢……。かなうものならば、こうありたいと、いつも望んでいる儚い……、儚い夢……』
かなうのであれば、他の何をもいらないと……。
『これは私の我が侭……。彼女を奪う権利は私にはありません……』
“本当に?”
彼の腕の中でうっとりと夢見るような表情のアンジェリークが囁いた。
“私のいる場所は私が決めるわ……。リュミエールの様の腕の中がいやだと、誰が言ったの?”
『………誰? ………そう、そうですね…。それはあなたが決めること…』
吐息がかかるほどに近付いた二人の顔。
どちらからともなく唇が重なり、満たされた思いともう一つの枯渇した心がせめぎあう。
『愛しています…、アンジェリーク……。あなたと………ずっと……、共にありたい…。離れたくないのです……アンジェリーク。
あぁ……、あなたの唇はこんなにも温かくて柔らかい。……私の心を優しさで満たしてくれる……。
これは夢………?』
確かに夢であるはずなのに、その唇は本当に温かかった。
夢であると知っていたからこそ、自分の心のままに幻の彼女の唇を奪った。
『本当に夢………? なんて現実味のある夢……』
伝わる唇の温かさ、柔らかさ。
肌にかかる細い指。
それらの温もりの、余りにもリアルな感覚。
「……アンジェリーク……」
唇が離れた瞬間、リュミエールは泡沫の漂いから一気に現実へ戻ってきた。
目を開けてすぐに飛びこんできたのは………。
「リュ…ミエール…さ……ま……、わたし……」
頬を僅かに薔薇色に染め、握りこぶしを口に当てた、アンジェリーク……だった。
アンジェリークが闇の守護聖に呼ばれこの部屋に来たのはほんの数分前だった。
いつもは薄暗い室内は、今日はテラスに続く窓がすっかり開いており、陽射しを遮るためだけにかけられた薄いレースのカーテンが風になびいている。
カーテンが揺れるたびに陽射しが斑な模様となって床をチラチラ動き回る。
「……リュミエール様?」
いらえはない。
クラヴィスは確かに言った。
『私の執務室でリュミエールが待っている……』と。
ここの所ずっとリュミエールに避けられていた。
以前は、兄のように時には母のように優しく厳しく導かれ、あれほど悲惨だった女王試験も、今ではそれなりに務めている。
そう……。最初はそれだけのはずだったのだ。
リュミエールといられる……。
それだけで心がやすまり、満ち足りてくる。
胸の高まりを恋だと知り、瞬く間に愛に変わってしまったのは、自然な成り行きだった。
(女王になりたくない……。我が侭なのは分かってるけど、だけど………)
リュミエールはそんな彼女の心に気付いて避け始めたのだろうか。
そう思いつくと、苦しくて切なくてもう……、何もかも放り投げて下界に逃げ戻ってしまいたかった。
でもその前にひとつだけ……。
リュミエールが何故自分を避けているのか、それだけははっきりしたかった。
(リュミエール様…)
室内をぐるりと見まわすと、執務机の向かい、背を向けたカウチの背もたれから水色の頭がのぞいていた。どうやら眠っているようだった。
アンジェリークは彼を起こさぬようにそっと周りこむと、窓を背に、見下ろす位置に立つ。
(……なんて…キレイ……)
眠れる水の精霊は微かに微笑を湛え、まるで彫像のように、しかしそれのように冷たさを感じさせるものではなく、見ている人の心を何か暖かいもので満たして行くような気高さがあった。
高潔な水の麗人……。
じっと見ていると余りの美しさと愛しさで胸が痛くなる。
「リュミエール様……」
知らずに彼の名を呼んでいた。
そして軽く屈むと、引き寄せられるかのようにその表情をうっとりと眺めた。
彼の唇が微かに動いている。
その唇の動きがある名前を紡ぎ出しているのを知った時、アンジェリークは無意識のうちに己の唇を重ねていたのである。
「あっ………」
体温を感じさせない薄い唇の、でも確かなぬくもりを感じあった時、リュミエールが突然身じろぎして目を開けた。
「……アンジェリーク……」
「リュ…ミエール…さ……ま……、わたし……」
アンジェリークは自分のとった行動の為に、一瞬にしてパニックに陥った。
(私、私、一体何をしたのっ? キス………? 眠ってるリュミエール様に………)
こぶしを口に当て、桜色の爪をかじっているのに気付いた彼女は、慌てて両手を後ろに隠した。
(パパとママに『気をつけなさい』って、言われてたのに……)
完全に混乱しているせいでまるきり関係のないことばかりが頭に浮かぶ。
(みっともないくせだから、やめようって、気をつけてたのに…)
もうまともに思考も働かない状態で、アンジェリークは立ち尽くしていた。
所在なさげにうろうろとさまよい続ける視線は、けっしてリュミエールをみようとはしない。
リュミエールは苦しげに目を細める。
「…アンジェリーク………」
眠っていても感じたあのぬくもり。
自身の行動を恥じてうろたえ続ける彼女を前に、もうリュミエールは自分自身を押し殺すことに限界を感じた。
(………そう、選ぶのは私だけではないのですね…。それがあなたの選択ならば、もう私は自分を偽ることもない……)
そっとアンジェリークの方へ手を伸ばしたリュミエールは、そのまま彼女の腕を捕らえ、ぐいっと己の腕の中に引き込んだ。
「りゅ、リュミエール様っっ」
思いがけず、暖かな腕の中に包まれた彼女は一瞬抵抗を試みた。
先ほどの混乱が尾を引いていて、突然奪われた体の自由に驚いたのだ。
「…………」
リュミエールは何も答えない。
アンジェリークの首筋に顔を埋め、黙ったままで抱擁だけをさらに強くする。
「リュミエール様っ?」
ようやく事態を把握したアンジェリークが頬を染めたまま問いかける。
するとしなやかな指が背中を這い登り、金の髪を絡めながら頬を捉えた。
ゆっくりとリュミエールが身体を離してゆく。
「………アンジェリーク…」
名を呼ばれ、彼の顔を間近で見た彼女の頬に何時の間にか涙が零れていた。
彼女自身、何故泣いているのか分からなかったが、彼の腕の中が嫌で泣いているのではないことだけははっきりしている。
その胸に広がるのは不安と安堵と、様々なせめぎ合う想い…。
彼女はためらいがちに、思ったよりも広い胸に頭を預けた。
「……泣かないでください…。あなたの涙は波の滴よりも美しいけれど、私の胸に痛みを与えるのです。
私はあなたに………随分酷い態度をとってしまいました。本当に、申し訳なく思っています。
………ですが、これだけは言わせてください。
あなたを、愛しています、アンジェリーク。
私があなたを愛することで宇宙から類い稀な女王を奪ってしまうことはわかっていました。私の我が侭だから、私一人が心を偽ればそれで問題はないと、そう思っていました。でもそれは、私の独り善がり。まず始めにあなたの心を考えねばならなかったのです。
確かにあなたは女王候補で、女王になるためにこの試験に努力しているのですから。
それでもあなたの心を確かめず、私一人の心の負担を軽くするためにあなたを避けていたのは……、それは私のずるさ……。優しさにかこつけた、ただの自己満足でしかなかったのです。
……私は、卑怯かもしれません。
あなたの温もりを感じるまで、それを口にする決心がつかないでいたのですから…」
リュミエールはアンジェリークの顎を人差し指でそっと持ち上げ、親指で唇をなぞった。
涙の跡が痛々しく、リュミエールの目に映る。
彼はその跡を唇で吸い、彼女の頬を両手で包む。
「お願いです……。
あなたの心を、あなたの声で聞かせてください……。
この唇だけでなく、その瞳だけでなく……。
私の幻想ではないと、私のうぬぼれではないと、その声で私に聞かせて…」
触れ合う程に近付く唇。
だが震える彼の唇はそれ以上動くことはなかった。
待っているのだ。彼女の言葉を。
「リュミエール様……、私……」
かかる甘い吐息が彼の胸のうちを切なくさせる。
「アンジェリーク………、愛しています…」
再びリュミエールが囁く。
「……私も………、好き……、愛してるの……リュミエール様…」
その言葉を待ちかねたように、すぐさま彼の唇が重ねられた。
今度のキスは僅かな時間のふれあいでなく、離れていた長い時間を埋め付くすようなキスだった。
FIN
お待たせしました(^^)
ファンコールリクエスト、第六回目の作品です
タイトルの「きかせて」は、オフコースの歌から頂きましたわ(^^)
リュミエール様の優しさの源は、ひょっとして自己愛??
そう考えてしまうのは、リュミエール様があまりにも美しすぎるせい(爆)
あー、美しいって、罪なのね………(一度は言ってみたいもんだ……(--;;))