「─── どうもありがとうございました。おやすみなさい」
二階のテラスで、灯りも付けずにぼんやり月を眺めていたクラヴィスは、聞き慣れた声に我に返った。
ころころと鈴のように転がる、彼がいつも耳にしていたいと望んでいるその声…。
声のした方を見てみると、玄関先でぺこりと頭を下げた声の主と、薄闇に立ち去りかけている紅い髪の男が見えた。
(あれは………)
それは同じ守護聖の仲間だった。
もちろん、彼も見知っている。
やがて我が妻が館の扉の中に消え、男が闇に溶けてすっかり見えなくなっても、クラヴィスはそのまま闇を凝視してじっと立ちつくしていた。
「クラヴィス様?」
アンジェリークは補佐官の正装を脱いで薄物の部屋着に着替えると、愛する人の姿を求めて屋敷の中を彷徨った。
いつもなら一緒に帰ってくるか、彼女の方が先に帰っていて出迎えるので、こんな風に探すこともないのだが……。
時たま彼女の方が遅くなった時も、彼はまず自分の部屋以外で待っていたことはない。
「どこ…? クラヴィス様…」
灯りの乏しい館の中、主とその夫人の主意で使用人は最低限しかおいておらず、しかも夕方にはそれぞれの家に帰ってしまう。したがって、この館の中にはクラヴィスと彼女しかいなかった。訊ねようにも誰もいないので、彼女は彼を捜して屋敷の中を歩き回った。
しかし彼の部屋はもとより、リビング、ダイニング、バスルーム、挙げ句は中庭や物置にまで行ってみたが彼の姿は見つからない。
「……どこ……、クラヴィス様……」
彼は帰宅してないのだろうか。
暗闇が連れてくる寂しさも相まって、とうとう翡翠の瞳には涙が浮かんできた。
(…先に帰ってる…って、言ったのに………)
土の曜日であるにも関わらず執務の終わらない彼女に、クラヴィスは午後からルヴァの私邸でお茶をよばれた後、先に帰宅しているから…と告げた。
こんな遅くまでお茶会を開いているはずはないし、それとも引き留められているのだろうか、とも考えたが、クラヴィスの気性から考えてその可能性は低かった。
よもや不測の事態でも……、とまで思い詰め、アンジェリークは気が気ではない。
「クラヴィス様ぁ……」
半ば泣き出さんばかりにして、もう一度館の中を探してみようと家の中に戻っていった。
一方クラヴィスは、アンジェリークが帰ってきた時から幾つもある客室の一つのテラスにいた。
そこは玄関のほぼ真上に当たり、彼女が帰宅するのをいち早く発見できるからである。しかも、外灯の真裏になる為に下からはテラスの様子が見えず、自分が子供のように彼女の帰宅を待ちわびてそこにいると悟られずにすむ。彼女の帰宅を見つけたら、即座に自分の部屋に戻ればよいのだった。
しかし、今日は余りに混乱していて部屋に戻ることも忘れて佇んでいたのである。
紅い髪の男と楽しそうに話す愛しい妻…。
その光景を思い出すにつけ、胸の奥がざわめき出す。
よもや彼女が心変わりをするとは思わないが、自分といる時よりも他の男といた方が楽しいのでは……などと考えはじめると、面白味もない己の不甲斐なさと相手の男への嫉妬でどうにも苦しくてならない。
アンジェリークが彼を探して呼ぶ声が聞こえても、出ていく気力すら失っていた。
早く彼女を抱きしめて口付けの一つも交わしたいところであるが、今は顔を合わせた時に自分がどういう行動に出るか分からなかった。
彼を呼ぶ声が大きくなったり小さくなったり、やがて外の方から聞こえてくると、クラヴィスははっと息を飲んだ。
(泣いて……いるのか……?)
呼び声が切なく震えて嗚咽が混じっている。
その声は間もなく館の中へ入ってくると、階下をはじから順に移動していった。
そして二階に来ると、やはり同じようにはじの部屋から一つずつ彼の名を呼んで所在を確認していく。
(アンジェリーク………)
なぜかとても自分が酷い事をしているような気がして、罪悪感に苛まれた。
むしろ泣きたいのは自分の方であるが、それは自分が勝手に嫉妬したり自虐したりしているからに過ぎない。彼女に当たることはないのである。
声はクラヴィスが潜む客室の前まできていた。
恐る恐る扉を開く様子が彼女の怯えた心を現しているようだ。
「……クラヴィス様……?」
「ここだ………」
一つ息を飲んで、そう答える。
しん…と、部屋は一瞬静まり返った。
「クラヴィス様……ですか?」
先程よりも幾分大きな声が ─── やはり嗚咽混じりの声ではあったが ─── 再度確認の為にかけられ、クラヴィスは大きな溜息をついて「そうだ」と答える。
次の瞬間。
開け放たれたテラスの扉から金色の塊が遮二無二しがみついてきた。
「クラヴィス様っ、クラヴィス様ぁ…」
ただ、彼の名前を呼ぶことしか出来ずに、子供のように泣きじゃくるアンジェリーク。
よっぽど心細い想いをさせてしまったのであろう。彼女の細い肩は暖かな闇の腕の中に包まれているのにも関わらず、震えが止まらない。
「探していたのか………、すまなかった…」
全てを委ねてすがりつく金色の天使が愛しくて、抱きしめる腕に力を込める。
彼女の肌から立ち上る甘い香りと、温もりがクラヴィスの独占欲を満足させ、自虐を続けていた己の心が氷解していくのが感じられた。
この腕の確かな温もりは、彼の心を地上に引き上げてくれるもの…。
そう目を閉じて想いながら、艶やかな髪を撫でていた。
「っく……、どうして……? 呼んだのに…………返事をして…っく、くれなかったの?」
とくんっ、とクラヴィスの心臓が鳴った。
さも楽しそうに会話していた二人の姿を思い出し、燃え上がる嫉妬の炎に胸が痛くなる。
「おまえは……、……おまえはどうして………」
すがりつく華奢な身体を引き剥がし、二の腕を掴むと、クラヴィスは苦しそうに顔を歪めたまま呟いた。
「クラヴィス様……?」
涙の後も乾かぬ顔が、呆然として彼の顔を見返した。
「………」
(どうして…、その天使の笑顔を他の男にも向けるのだ?)
そう訊ねたいのは山々であるが、その答えを出すことは出来ないことは分かっている。
彼女にとってその微笑みの対象は全てのものであるから……。
そうである限り、全てのものの愛は彼女の身一身に集まるのだ。
自分だけが彼女を愛している訳ではない。
クラヴィスは、アンジェリークが女王候補時代に、一癖も二癖もある個性豊かな守護聖達から ─── もちろんそこに自分も入っているが ─── 愛されていたことを思い出す。
彼女をその腕に抱きたいと思っていたのは、クラヴィスだけではあるまい。
他の男の腕の中で微笑むアンジェリーク……。
想像しただけで焼け付くような痛みが全身を襲う。
「……おまえをこの腕の中に閉じ込めて…………誰の目にも触れないように出来るならば……」
後悔は、気が遠くなるほどにした。
が、執着なぞ……、今までしたことがなかった。
前女王とのささやかなロマンスさえ、宇宙の均衡の前に思い切ることができた。
諦めることが彼の常となっていて、こんなやりきれない想いに身を焼くこともなかった。
人はここまで変わる事が出来るのかと、他人事のように考える。
「私だけに……微笑みかけてくれ……。私だけを、愛して……くれ」
そのほとんど聞き取れない程掠れた声を耳にして、アンジェリークは彼がいらぬ嫉妬をしていることに気付く。
そして周りをよく見てみれば、そこからは玄関のアプローチがよく見通せた。
(クラヴィス様…ひょっとして……)
彼は先程、炎の守護聖に送ってきてもらったところを見たのであろうと想像がつく。
アンジェリークは何故か嬉しくなってきて、くすくすと笑い出した。
「………何故、笑う……」
真面目に話しているクラヴィスは、その笑いが気に障ってぷいっと横を向いてしまった。しかしそんな仕草がとても子供っぽく見え、かわいらしくて、また彼女の笑いを誘う。
アンジェリークは新たな発見に瞳をキラキラさせながらクラヴィスの首に腕を絡ませた。
「私がクラヴィス様に見せる笑顔は、特別な笑顔だって、ご存じのくせに」
そう言って彼の頬にそっと唇をよせる。
「クラヴィス様への笑顔には、“愛してる”ってメッセージが一杯入っているのよ」
その言葉にようやく機嫌を直したクラヴィスは、擦り寄せられた細い身体をぎゅっと抱きしめ、切なげに吐息を漏らした。
「……アンジェリーク…」
「……それにね、私は私しか知らないクラヴィス様を知ってるし、クラヴィス様だって、他の誰も知らない私の微笑みを知ってるでしょ?」
囁きながら、アンジェリークが口付けをねだる。
それにクラヴィスが深く、熱く応えてやると、上気した頬と潤んだ瞳で彼を見つめた。
「……私は…クラヴィス様だけのものよ…」
熱い塊が喉元にこみ上げてきて、クラヴィスは堪えきれずに再び唇を重ねた。
先程クラヴィスが身を焦がした嫉妬の炎は、その分情熱となってアンジェリークの身体に降り注ぐ。
そして彼は……。
自分だけしか見ることの出来ない天使の素顔を見るために、彼女を抱き上げ部屋の中へと入っていった。
SUJY-Fantasy-Factory ~アンジェリーク、遥かなる時空の中で等の二次創作と、オリジナル小説のサイトです。

Top > Fan fiction - アンジェリーク > It's a only……