(遅いな……)
そう心の中で呟いている自分に気付き、闇の守護聖はふっと自嘲の笑いを浮かべた。
「何をやっているのだ……私は……」
今日は日の曜日。
執務も育成も、何の用事もない日である。
何をするでもなく、この執務室にいるのは別に日の曜日に限ったことではないが、今日わざわざこんな所にいる必要も、ないではないか。
そう思い至り、私邸に帰ろうとも思うが、はたまた気が乗らない。
気怠げに溜息をつき、手にしたカードを一枚、めくってみる。
“The Hermit”
「無明の闇に漂う、隠者のカードか……。これほど私に相応しいものはあるまい…」
ひとりごちて、やがて彼は諦めたように席を立ち、扉に向かった。
今日は、あの少女はこないだろう。
輝く金色の髪と、くるくると表情の変わるあの緑色の瞳。
闇を臆するでもなく、また否定もしない。
そして何より溺れない…。
女王試験が始まった当初は、この薄暗い執務室に驚いたようだったが、それもすぐに馴れ、幾度と無く足を運ぶようになった。それも嬉しそうに…。
どんなにクラヴィスが感心無くあしらおうと、…である。
「まったく……不思議な娘だ…」
今では、軽やかに響く靴音や、鈴のように転がる明るい声、それら全てが心地よくさえ感じられる。
…いや、待ってさえいるのだ。彼女の来訪を。
こんな天気の良い日の曜日に、あの真昼の日溜まりのような少女が薄暗い部屋へ来るはずもないと思いながら。
扉の前までくると、はたと足を止める。
パタパタパタパタ………。
聞き覚えのある軽やかな足音。
自然と彼の口元に僅かな微笑が浮かぶ。
その足音の向かう先がたとえ彼の元でなくとも、一生懸命に聖殿の廊下を走ってくる少女の姿を思い浮かべるだけで、無表情な彼の顔にすら優しい面差しを宿らせる。
「……まったく……。あのように走っていたらまた、ジュリアスあたりに小言を言われるであろうに……」
その足音は導かれたように立ちつくす闇の守護聖の執務室の前で止まり、一呼吸の間が空く。
─── コンコン
「失礼しま~すっ」
ノックとほぼ同時にドアが開き、光の塊が飛び込んでくる。
…と、ドアの前に立ちふさがる黒く大きい障害物にまともにぶつかって、それは小さな悲鳴を上げた。
「きゃっ……。………? クラヴィス様?」
「……そうだ。…一体何だと思ったのだ?」
幾分、からかうような口調。
ノックと同時に飛び込んでくるのはいつものことで、クラヴィスはそれを知っていてその場に立ったままでいたのだ。
「えっ? 何だ……って…」
「そうだな…。黒くて大きい…………さしずめ熊といったところか?」
アンジェリークは一瞬きょとんとした顔をし、
「……ぷっ、やだぁ~、クラヴィス様ってば」
口に手を当てくすくすと笑い出す。
一体この聖地で何人の者が知っているだろう?
無口、無表情、無関心だと言われている闇の守護聖が、以外にも冗談好きだということを。
無邪気に笑うアンジェリークを優しい瞳で見下ろすと、その手に持つ小さな箱に気付いた。
「……?」
「あっ、これ、お土産です。……あの、私が作ったマドレーヌですけど」
闇の守護聖は目を見開いた。
闇の守護聖にマドレーヌ。ちょっと変わった組合せかもしれない。
「私に……か?」
「はい。…それでですね、一緒に森の湖で食べようかな…なんて。実は私まだ味見してないんです。だから、クラヴィス様は私が毒味してからね」
そう言うと、クラヴィスの返事も待たずに手を引いた。
「いきましょう、クラヴィス様」
日の曜日の午後であるというのに、森の湖に人影はなかった。
今日の天気はうららかで、どちらかと言えば庭園で散歩する方が気持ちよいのかもしれない。
アンジェリークとクラヴィスは滝のそばの木陰に腰を降ろし、さっそくマドレーヌを食べ始める。
「う~~~ん………」
「どうした?」
「ひょっとしたらクラヴィス様には甘いかも…」
ためらうアンジェリークを見下ろすと、彼女の手にあるマドレーヌを一掴み口に入れてみる。
アンジェリークが言うほどには甘くなく、菓子独特のバニラの香りと焼けた卵の匂いが食欲を誘う。
「おまえが言うほど…甘くはない。……なかなか良くできている」
「本当?」
クラヴィスの言葉に満面の笑みで答え、二人はマドレーヌを食べながら穏やかな午後を過ごした。
穏やかとはいってもアンジェリークがしきりと話しかけ、それにクラヴィスが短いいらえを返すというものであった。しかし、クラヴィスはそんなお喋りに付き合うことも煩わしいとは思わなくなっている。
もう、疑う必要はない。
この少女といると自分の心にまるで春が訪れたような気がする。
無明の闇の中に漂う隠者に、一筋の光の道しるべが示されたような……。
それは何かが変わる希望の光。
いつの間にか陽は傾き、茜色の空が切なく湖に映る。
こんなにも長い時間が、この少女といるとあっという間に過ぎてしまうことに、闇の守護聖はあらためて驚きを禁じ得なかった。
「……夜が近づいている…。送ってゆこう」
それは、お決まりの言葉。
どれ程本心は違っていようとも、彼女はうら若き女性で、しかも……女王候補だ。
「えっ……」
アンジェリークは短く声を上げ、黙り込む。
「どうした……?」
いつもと違う反応が返ってくる。
いつもなら、闇の守護聖の瞳を真っ直ぐ見つめ、「はいっ」と明るく答えるのであるが…。
今日は何故か俯いて黙り込み、手を口に当てている。
その酷く悲しげな様子に、クラヴィスは思わず手を伸ばしかけた。
(いったい…私は何をするつもりだ…?)
「………もう…帰らなくちゃだめですか?」
思いもよらぬ返事が返ってきた。
この少女も自分と同じように逢瀬を惜しんでくれているのか……と思い、クラヴィスはますます抱きしめたいという衝動で、苦しまねばならなかった。
しかし、もっと一緒にいたいと思うのはクラヴィスも一緒だ。
「では……私と来るか…?」
彼女はきょとんと、クラヴィスの顔を見上げ、真意を測りかねる……といった表情をした。
実はクラヴィス自身、別の意味にも取れることを後から気付いたのであるが、一度口から出た言葉はもう動き出している。
「……帰りたくないのだろう? ならば今から私と来るかと聞いている」
(……ずうっと…。これから…ずっと…)
その言葉を心の中で繰り返す。
一呼吸置いたのちに、アンジェリークは「はい」と答える。
その表情に再び笑みが戻ったのを見て、闇の守護聖も一呼吸ついた。
自分が何よりも少女の笑顔を望んでいるのだと、再発見した瞬間でもあった。
恥ずかしげに瞬く星々。
これ見よがしに存在を主張する月。
茜色の名残の光はすでに山並みの彼方へ追い払われて、聖地は夜に包まれていた。
アンジェリークはこんな時間までクラヴィスと一緒にいるのは初めてであった。
それを密かに喜ぶとともに、これほど夜が似合う人はいないであろうと、あらためて感慨を受ける。
「夜空を見上げていると、とても静かな気持ちになる…」
「そうですね……。夜に闇のサクリアが満ちているのが分かります。クラヴィス様の力…。なんて……優しいの…」
クラヴィスは少女の顔に視線を落とし、闇に紛れて優しい笑みを浮かべた。
果たしてそれはアンジェリークに見えたのだろうか…?
「この空の下で人々が安らかに眠りについているのだと思うと…、私の力もまんざらではないと感じるのだ……」
それを聞いたアンジェリークは微かな声を立てて笑った。
「それは違います」
「なに?」
「『まんざらではない力』じゃなくて、『なくてはならない力』です。クラヴィス様、謙遜しすぎですよ。この闇の力がどれほど人々になくてはならないものか…」
諭すような口調に、クラヴィスは苦笑いをする。
「…かなわんな……」
「うふふ…」
夜風がさらりとクラヴィスの射干玉の髪をさらう。
テラスの手すりに寄りかかるようにしていたアンジェリークは、両手で自分自身を抱きしめ、ぶるっと身震いした。
「寒いのか?」
「少し…」
闇がふっと動くと、アンジェリークはそっと暖かい腕に包まれる。
「クラヴィス様…?」
抱き寄せられた身体に伝わる温もり。
真綿にくるまれたような抱擁。
ためらいがちに引き寄せるクラヴィスの顔を見上げると、彼は無表情にこちらを見下ろしていた。
「これで少しは暖かいだろう。………私はもう少し……、お前と星を見ていたい」
(言い訳だな…)
本当は。
隠者に道を指し示す光の痕跡を確かめたかった。手を伸ばせばふっと消えてしまいそうで、確かな温もりをこの手にしたかったのはクラヴィスの方だ。
だがしかし、アンジェリークは彼の言葉を素直に信じ、頷いた。
「…私も」
アンジェリークの心も安らぎに満たされる。
それは闇のもたらす安らぎでなく、自分を抱きしめるこの腕がもたらすものであることは知っていた。
彼の微妙な表情の動き、優しい視線、彼の全てが小さな胸の奥深くにしっかりと焼き付き、いつの間にか恋に落ちていた。そうと気付いてからは尚更、恋は加速度を付けて進み、今ではもうクラヴィスは彼女の一部にすら感じるほどだ。
自分が少なくとも嫌われていないという自信はあった。しかし、“好ましい”と思ってくれる以上の気持ちがあるのかどうかまでは、分かるはずがない。
彼女はただ、彼女の心が思うままに…彼を愛しむだけであった。
(何となく……クラヴィス様…淋しそう……。人の温もりが欲しいんだわ……)
それはほぼ正解であるが、ただ一つ…。
彼の欲しいのは“人の…”ではなく、“アンジェリーク”のであることだ。
アンジェリークは嬉しかった。そんなときに彼のそばにいられた事が。
クラヴィスの心を今温めているのは自分だ。
そう思えば、こんなに何の取り柄もない自分 ─── 同じ女王候補のロザリアと比べて見劣りする自分にも僅かながら自信が持てる。
(お星様……。私…こんな風に……たとえクラヴィス様が私のことなんとも思ってなくても、この方のそばにいられるなら………他には何もいりません…)
そっと…祈りを込める。
自分を慕ってくれるエリューシオンの民や、励ましてくれる他の守護聖たちには申し訳ないが、自分の気持ちに嘘は付けなかった。
その想いが届いたかどうか…。彼女に確かめる術はない。
万感の思いを込め、アンジェリークは己の頭をそっとクラヴィスの胸にもたれかけた。
「!!」
その衝撃は、暗い室内からいきなり明るい戸外へ連れ出されたような。
厚い雲間に隠れた月が、その隙間から真実の光を投げかけたような…。
いずれにせよ、少女の僅かな挙動がこれほど自分の心に衝撃をもたらすとは、思いもしなかった。
反射的に一瞬ぎゅっと抱きしめて、己を戒めながら腕を緩める。
「……どうした…?」
掛けられた声は殆ど聞き取れないほど、掠れている。
自分の胸に全てを預けたように身を委ねてくる少女が愛しかった。
その身も心も…。
狂おしいほど欲して止まない自分が、真実の光に照らされた心の闇の奥隅に存在する。
心を開くことに恐怖すら感じるクラヴィスに、これほど柔らかく侵入してきたのはアンジェリークのみであった。
(また……同じ過ちを……)
そうであったとしても、もう認めずにはいられない。
(そうだ……。私は確かにこの少女を愛している……。『また同じ過ちを』と嘲笑されようと、侮蔑されようと…それは……私の真実だ)
「こうしていては……ダメ……ですか?」
アンジェリークの声は、直接胸に響く。
重なる鼓動が高鳴り、それは少女の耳に容易に聞こえてしまう。
「……いや」
「クラヴィス様の胸の音が聞こえる……。ほら…『どっきん、どっきん』って……。私の胸の音も同じ……ドキドキして……重なる…」
見上げた翡翠の瞳が月明かりにキラキラ輝く。
(もう……これ以上……)
クラヴィスは限界だった。
これほど欲したことがあったであろうか?
これほど愛しいと思ったことも…。
己の感情が暴走してしまいそうになり、彼は震えながら目を閉じた。
クラヴィスの身体から闇色のオーラが立ち上る。
彼が持つ神秘の力。
そのサクリアが優しく夜に満ちて行く。
(今はただ……、全てのものに私が感じているほどの安らぎを与えたい)
いつも、育成の時や、女王の望みのままに発する力はどこか寂寥感が漂っていた。
自分も真に安らいでこそ、その真実の力を発揮するのだと…初めて知った。
彼の、愛から放出するサクリアは、飛空都市を越え、次元を越えて全ての宇宙に染みわたっていった。
「アンジェリーク…?」
もたれかかる身体の重みから、少女が眠ってしまったことを知った。
クラヴィスはその身体を抱き上げ、テラスを後にした。
その確かな手応えを離したくはない。
今錨が無くなれば、自分はまた無明の闇の果てに漂っていってしまうであろう。
そのまま、彼女の重みを感じながら結構な距離を歩き続け、女王候補寮に辿り着いた時はさすがにくたくたであった。
それでもそれは心地よく、痺れた手足に幸福感を満たす。
「ゆっくりと眠れ……」
ベッドに少女を横たえると、そっとシーツを掛けてやりながらクラヴィスは呟く。
「…愛しい少女よ…」
アメジストの瞳をくゆらせ、ゆっくり顔を近づけると僅かに開いた唇に己のそれを重ねた。
FIN
この話の発端は「テラスデートが終わって暗転 → いきなりベッドの上で目を覚ます」のはどーしてかっっ??
その間の妄想が走って走ってこんなになってしまいました(笑)
まさか他の守護聖の皆様は、アンジェの隣にこっそり入り込んでないでしょうね…?