─── コン、コン、
「失礼しまーす」
ノックとともに明るい声で入ってきたのは、彼の想像通り、アンジェリークだった。
閉ざされた部屋の、唯一の光源である筈の燭台の光が、薄らいだように感じられるのは、彼の気のせいであろうか。
「…よく来たな。したが……今日は休みの日だ。何か用か?」
闇の守護聖クラヴィスは、アンジェリークの顔を見つめたまま問いかけた。
そっけない言葉とはうらはらに、口元に浮かぶ僅かな微笑が彼の歓迎の意を伝えている。
「ええ。クラヴィス様…、この間のお礼を言おうと思って」
「お礼…?」
「先週の日の曜日に館に招待して頂いたでしょう? その時に頂いた果物、とってもおいしかったです。ありがとうございました」
「そうか…」
クラヴィスはうっそりと呟いた。
「…えっと、今日はその、クッキーを焼いてきたんですが……」
「?」
アンジェリークは後ろ手に、少しの間もじもじしていた。
が、やっと決心したのか、ピンク色のリボンをかけた小箱を闇の守護聖の前に差し出す。
「よかったら…、本当によかったらでいいんですけど、食べて下さい」
差し出された手は、火傷でもしたのか、あちこち赤くなっている。
クラヴィスは一瞬だけ目を見張り、そしてまた、優しく笑った。
「……随分と…、苦戦したようだな」
「えっ? …ええ、まあ…」
今度は少女が苦笑いする番だった。
クッキーは一見、程良く焼けているようだったが、よく見ると焼けすぎの所や何やらまだらになっている。
それを見ていると、不器用な手つきで一生懸命クッキーを作っているアンジェリークの姿が浮かんでくるようだ。
「……少々固いようだが……、味は良いな。もう少し練習すれば上手く焼けるようになるだろう」
「はい! 頑張ります!」
アンジェリークはホッとして最上級の笑みを浮かべた。
「また、持ってきますね」
くるりときびすを返した少女の背にクラヴィスの声が追いかける。
「…急ぐのか?」
「えっ? …いいえ」
「ならば…、星でも見るか?」
「えっ…?」
「こちらに来るがよい」
クラヴィスに導かれるまま少女が闇の守護聖のそばにゆくと、彼はゆっくりと立ち上がり左手をかざした。
闇の手に誘われるようにして部屋に星が集まり、瞬く間にそれらはプラネタリウムの様に二人を取り巻く。
「わぁ……」
宇宙空間の中に浮かぶアンジェリークは、星々の悠久の光に感嘆の声を上げた。
「きれい……」
「これは……星の見る夢だ。闇の安らぎの中で星々は夢を見る。……いつまでも人々を見守っている夢を……」
「夢…なんですか?」
「そうだ。……今ある星の光は、すでにこの宇宙に存在しない星のもの。…だが実体はなくとも、星の光は何万光年という気の遠くなる時を越えて我々のもとに届く。星の想いとともにな…。それは永遠ともいえる願い、希望…なのかもしれない」
クラヴィスは闇に目を凝らして、何かを求めているように見える。
「闇のもたらす安らぎは、星々の希望の中にこそ存在するのか…」
いつもの彼からは考えられないほど饒舌で、しかも希望的発言ではあった。が、アンジェリークには、闇の安らぎの中に漂っているはずのクラヴィスがまだ何か求め続けているように感じられる。
それは一体何であるのか。
クラヴィス自身も、安らぎの中に有りながら、そのサクリアに溺れ埋もれていながらも、いつも心のある場所が満たされていない感じを自覚していたのだが、それが何故であるのか追求するのが怖くもあり、またおっくうでもあった。何もかも、自分の心さえも凍らせておけば、それ以上傷付くことも悲観することもないのだから。
だが…。
「アンジェリーク……」
クラヴィスは右手に携えた闇色に輝く水晶球を見つめている。
その声が僅かに震えているように感じたのはアンジェリークの気のせいだろうか?
「私は……、永い間…この闇の安らぎの中で自分の内側のみを見つめ続けてきた。そこは闇の深淵だ。何ものも……その闇に行くことは出来ない。私以外はな。……そのはずだった。だが……最近そこに一筋の光が射すのだ」
彼は目を閉じ、祈るように水晶に手を置く。
「…それは星々の希望の光が見せる幻なのか…、それとも……」
自分の心の宇宙にポッカリと開いた闇の深淵に一条の光…。それはよりその虚ろな空間を浮かび上がらせ、彼の心を苛む。
お前の心には、『何もない』のだと。
(私の心が求めるもの……、私の心を満たすもの……)
「クラヴィス様…」
アンジェリークは、水晶に置かれた彼の手に自分の小さな手を重ねた。
闇の守護聖の表情には葛藤が伺えた。せめぐ心が芽生え始めた僅かな希望と戦っている。
誰も手助けすることは出来ない胸の内の聖戦。
だが、少女の手の僅かなぬくもりは弱々しい希望に活力を与えた。
「アンジェリーク…」
その時であった。
水晶が輝きを放ち、そして…。
─── 一瞬ののち。
クラヴィスとアンジェリークは先程とは違う星霜間に漂っていた。
「ここは…?」
「……」
足元には貧相な土地が広がっている。
まばらに生えた灌木。無造作に見える岩肌。滅多な植物は育ちそうにない痩せた土地だ。…砂漠…、と表現しても過言ではない。
そして空には、彼らのいる時間とは違う星々が並んでいた。
その星の配置…。
気の遠くなる時間、星とともに過ごしてきた闇の守護聖には、そこが何時の時代のどの場所であるのか、はっきりと悟ってしまった。
「まさか………、……!」
砂漠の中にちらちらと揺れるか細い灯りが見える。
時折吹く風に瞬いて消えそうになりながらも、それははっきりと見えていた。
「誰かいるのかしら…? 行ってみましょう」
少女は彼の手を引いてそちらに漂って行く。闇の守護聖は黙したまま、導かれるままについていった。彼もまた、真実を確かめたかった。
「あれは…子供…?」
今にも消え入りそうな焚き火の側に、幼い子供がいた。4、5才ぐらいであろう。
彼は膝をかかえ、顔を埋めているので、その表情は伺えない。眠っているのだろうか?
横には、男が一人、横たわっていた。
少ない荷物もそこに一緒に置いてある。
「この人達……、ここで何をしてるのかしら?」
アンジェリークの素朴な疑問はクラヴィスの重い口を僅かに開かせた。
「流浪の民…」
「流浪の民? あの生涯旅の中で暮らしている…といわれている?」
「そうだ…。彼らの旅は死の安らぎが訪れる時まで終わりはしない」
少女はあらためて彼らを見た。
横たわる男。
そして、うずくまる子供…。
「……男は今、死の安息に抱かれようとしている」
クラヴィスの声には何の感情も込められていなかった。
「そんな…」
子供は一人ぼっちになってしまおうとしているのだろうか? この深い闇の中で…。
アンジェリークは胸が詰まった。この幼い子は、これから知ることになるのだろうか。深い孤独を…。
そして、それを知った子供は、どういう風に成長してゆくのだろう。
身も心も、この深い闇の中で孤独にさらされ、永遠にそれを取り巻きながら生きて行くのだろうか。そしてそれはきっと、死の安息が訪れた時も変わりはしないだろう。
(そんなの……そんなのいや。…夜空の煌めきも、闇の安らぎも知らないで、ただ、その恐怖だけを心に焼きつけたままなんて…)
最初は同情だった。
でも次第に心が子供に同調して、いつしか本当に慈しんでいた。
一際大きく炎が揺らめいた後、命を繋ぐ火は…消えた。
辺りに真の闇が訪れ、子供ははっと顔を上げた。
フードからこぼれる漆黒の髪、あどけなさを宿すアメジストの瞳。
その顔は恐怖に彩られている。
「そんな顔しちゃダメ…」
アンジェリークが呟く。
その声は子供に聞こえないようだ。
子供は激しい恐怖に襲われ、身動き一つできないようだった。
闇は刃となって彼の心をズタズタに切り裂き、星の青白い光がさらにその傷口を冷やしてゆく。心の氷はどんどんその厚みを増してゆき、暖かい春が来ても溶けることはかなわぬ程になる。
子供は最後の希望を求めるように、横たわる男に近づき、その手をとった。
冷たい、氷の様な手だった。
子供の緊張は最高潮に高まり、それが弾けた時、見開いた瞳から涙がこぼれた。
慟哭は闇をも揺るがし、その恐怖をより一層あおり立てる。
ひとしきり泣くと、やがて空虚が子供を満たした。
大切な者を失う哀しみ。
それは人間が味わう哀しみの中で、一番に心を引き裂く。
「ねぇ、あなた、ダメ…そんな所に心を置き去りにしちゃ」
アンジェリークは見えない手を子供の方に差し延べる。
「哀しみは深いけど…、孤独はすぐそばにあるけど…、だけど…いつかきっと、あなたの心に優しい小さな花が咲く…。だから、だから、その心全て、冷たい氷河に閉ざしてしまわないで…」
少女の体から金色の光が溢れ、それは風花のように辺りを舞った。
ふっと、子供はその光の痕跡を認める。
「………!? これは…」
クラヴィスの呻きが遠くに聞こえた気がした。
アンジェリークは差し延べた手を子供の頬に添えた。
「忘れないで、いつか必ずあなたの心は春の日溜まりの中に導かれる。それまで希望を捨てないで…」
子供の瞳は全てを忘れてアンジェリークの瞳を見返していた。
見える筈のない少女の瞳を真っ直ぐに。
その瞳にもはや怯えた色はなく、金色の燐光を放つ少女の姿を映している。
「私の姿をその心の扉の奥に焼きつけておいて。もし淋しい時は私の光があなたの孤独な心を包めるように」
子供はこっくりと頷く。
「例え側にいなくても、私の一部はあなたと共にあるから…」
光はさらさらと音を立てて崩れ、痕跡すら闇の中に溶けてしまった。
そこにはただ、深い、より一層深い闇の深淵と、荒涼な砂漠が広がっているだけだ。
「天使………様……?」
子供は呟く。
その心は闇の恐怖だけに囚われることはなく、そこに広がる穏やかな優しさを見出していた。
「おまえ……であったのか…あれは……」
「えっ?」
そこは元の、闇の守護聖の執務室であった。
闇のサクリアが創り出した星空はすでになく。水晶球も輝きを失っている。
暫くの間、口が利ける事すら忘れたように、子供と少女のやり取りの一部始終を見ていたクラヴィスはようやく言葉を絞り出した。
アンジェリークは知らずにサクリアを放出した疲れか、呆然と佇んでいる。
「遥かな……気の遠くなる程遥かな昔……。私に手を差し延べたのは、…アンジェリーク、おまえだったのか」
「えっ? えっ? 私にって…? クラヴィス様?」
アンジェリークには何が何だか解らない。
閉ざされた闇の守護聖の心の奥。そこに潜む、僅かではあるが輝かしい金色の面影。
永い年月の中には、『もしや…』と希望を持つ事もあったが、結局それはさらに厚い氷の層に包まれる結果となった。扉の奥に潜む光も、もはやそれを溶かせる力は薄れて行き、今では全てを諦めていた。力を失った光は、永久に闇の凍土に眠る筈であった。
茶色の髪の女王候補。
彼女に出逢った時の微かな胸の疼き。
クラヴィスはずっとそれを見て見ぬ振りをしてきたに過ぎない。
だが、今は…。
(私の心が求めるもの……、私の心を満たすもの……それは…)
「遥かな昔……、私に闇の安らぎを教え、希望の光を与えてくれた。…そして今また、お前は春の光と共に心を溶かし、忘れていた感情を甦らせてくれる」
闇の守護聖はそっと少女を引き寄せ抱きしめた。
「すまぬ…。今だけはこうして…」
少女の柔らかな髪に顔を埋める。
「くっ、クラヴィス様っ」
アンジェリークの心臓は限界まで脈打っている。
しかし、闇の守護聖から香る白檀の香を胸一杯に吸い込んだとき、ふっと、先程の子供に抱いた感情に似た、もっと穏やかで、しかし激しくもある慈しみに心を支配された。
「クラヴィス様…」
少女は知らずに、抱擁を返していた。
「!?」
クラヴィスは僅かに身じろぎし、そっと体を離す。
「アンジェリーク……、お前は私の……
───── ……いや、何でもない。……随分、遅くなってしまったな……送ってゆこう」
何かを言いかけた闇の守護聖は、その言葉を飲み込んでゆっくりとドアを開けた。
…TO BE CONTINUED
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